序曲 三
はじまりの時

 天高くにある神殿の外。落ちることなく空に佇む天使達が住まう大地。

「今日は、ここまでだな。」

 その中で大きく開けた広場に、大きな翼を背負う一人の天使が下方を見下ろしながらそう告げていた。輝く輪を戴く剃髪された頭と、磨き抜かれたように鍛えられた肉体が無骨でありながらも、強い神性を醸し出している。彼こそが、一見しただけでその人と分かる有名な上級天使―イザヤールであった。
「ネール、あまり過去のことを気に病む必要はない。」
 倒れた体制からゆっくりと起き上がろうとする愛弟子に手を差し伸べて、立ち上がらせる。実際に剣を交えることでその扱い方を学ぶはずであったが、その稽古は成長したかつての幼子にとって厳しいものであった。
 実力差を省みずに敢えて容赦ない攻めを続ける師の剣に応じきれず、ネールは成す術もなく地に伏していた。立ちあがって尚も、身を絞るような激しい修練によって体力を根こそぎ奪われてしまったために、足取りはもはやまともとは言えなかった。
「泣いてばかりだったお前が、ここまで強くなれたんだ。長老様も、見違えたと仰せだったろう。」
 しかし、今度は以前のように涙を流すこともなく、呼吸を落ち着いて整えて、やがて師へとしっかりと向き直っていた。そうして成長したネールの姿に満足したように、イザヤールは力強く頷いた。
「だが、時が経てばまだまだ強くなれる。この際、お前のために一度言っておかねばな。できない奴、と思わないことだ。その才能を見込んだからこそ、私はお前に慢心を許さなかったのだ。」
 いつからかこの天使界に舞い降りて、時が経って尚右も左も分からない程に未熟で、己の道を分からずに泣いてばかりであったネールが、今では厳しい修行にも耐えられる芯の強さを手にいれた。ただ漫然と積み重ねるだけでは得られない、荒ぶる激流をもその身に受け止める盤石なる器。
 全ては、闇の中にあるかの如く迷い続けた中で手を差し伸べてくれたイザヤールのお陰である。ネールはそう強く思うようになっていた。

「ネールよ。お前にはじきに守護天使として働いてもらうことになるだろう。」

 その中で、師が突然にそう告げてくるのを聞き、ネールは驚きを隠せず目を僅かに広く開いた。
「そうだ、そう遠くない日にな。」
 守護天使―地上に住まう人々に降りかかる厄を打ち払うためにこの天使界より遣わされし者達。その誇りある役割を、自分が成すべきときは近いという師の言葉に、歓喜とも不安とも一概に言えない複雑な気持ちがネールの表情に微かに現れ始める。
「お前自身も思うところが多くあったろう。だからこそ、そろそろ下界を見せておきたい。」
 その言葉から、イザヤールが自分に何をさせようとしているのか、ネールは漠然と掴めたような気がした。人間の住まう世界については他の天使達から幾らか教わったのは覚えている。だが、実際に地上に降り立ったことはない。
「では、私はそろそろ任に戻らねばな。後日、長老オムイ様の許しを得られ次第、お前を我が守護するウォルロ村に連れて行こう。」
 既にイザヤール自身はそのつもりでいるらしい。ネールは守護天使としての役割を果たすべく飛び立っていく師の言葉を、何度も心の中で反芻しながら、ただ静かに佇んでいた。

「ネ、ネ、ネール!?い…いま、イザヤール様、何て…!?」

 だが、突然耳元で甲高い声が聞こえると共に、誰かが目の前に詰め寄ってきた。
「…!!?」
 物思いにふけっているところに突然大声で呼びかけられ、意識を現実に急速に引き戻されたショックのあまり、ネールは混乱した様子で腰を抜かして地面にへたり込んだ。目の前に、見知った若い天使が驚愕の表情を浮かべて迫っているのを見て、更に動揺を深めていく。
「守護天使だって!?」
「ネールが!?」
 その騒ぎを聞きつけて、周りにいる他の天使達も次々と駆け寄ってきた。
「じょ、冗談もたいがいにしろ!守護天使ってのは…!!」
「…ま、待って、ネールはまだ何も言ってないよ!落ち着いて!」
 皆のあまりの剣幕にネールが何も言葉に出せない、その騒ぎを遠目から見ていた別の天使の少年が慌てて止めに入った。へたり込んだまま皆に捕まっているネールを引き離し、流れを断ち切ることでひとまず全員が我に返った。
「…わ、わりぃ。お前だってびっくりしてるよな…。」
 未だ目を回しているネールに対し、何かに取りつかれた様に迫った者達は口々に謝りはじめた。
「でも、さっきの話は本当みたいだね。結構大変なことだよ…これ。」
 しかし、それでもこの場の皆がイザヤールより聞いた言葉は、確かに衝撃的なものには違いなかった。
「いくらお前だって、いきなり守護天使とかやらされるって言われたらそりゃあな…。」
 本人は自覚していないが、この場の皆はネールとは長い付き合いであり、多くのことを見てきている。だからこそ、今のネールが守護天使という重要な役割に携わるのに対して頼りなさを覚えるのも当然のことであった。

「大丈夫よ。イザヤールの修行、何だか大変そうだったけど全部乗り越えたでしょう?だからネールならきっとできるわ。」

 そのとき、皆の不安をやんわりと否定するようにそう言いながら、この場にネールのもう一人の理解者が現れた。
「ラフェットさま?」
 先程ネールをあの喧噪の中から救った少年が、彼女の名を呼ぶ。天使界の数多くの記録の管理を司っている上級天使―ラフェットであった。赤い髪の上に戴く光輪と背中の大きな翼をもち、一際ゆったりとした天使の衣を着こなしているその姿は秩序に満ちており、まさしく記憶の守り手と呼ぶに相応しい。
「あら、サジ。こんなところでネールと話し込んでるなんて、もう書き取りは終わったの?」
 愛弟子である少年を見て悪戯っぽく笑いかけているラフェットの登場に、ネールは不思議そうに首を傾げていた。
「はい。ネールに負けてられませんから。」
「ふぅん、そう。」
 少年―サジはネールとラフェットを交互に見回しつつ、どこか自慢げに胸を張っていた。先程までの振舞いでは見られなかったネールへの対抗心がにじみ出ている。
「見てみなさい、あなたの努力に負けじとこの子も頑張ってる。あなたがどう思おうと、努力してるところは皆ちゃんと見てるのよ。もちろん、あなたのお師匠様―イザヤールもね。」
 このラフェットの言葉で気恥しそうに目を逸らす皆の姿を見ていると、サジに限らず、あのイザヤールの修行を乗り越えるべく努力を重ねるネールの姿を見ている限り、自らも修行に励む天使達も少なくないらしい。
「ネール、あなたは何もないところから自分の力でここまで来た。だから、自信持って行ってきなさい。あなたならきっとできるわ。」
 そして、ネールは元々皆からあきれられる程に無知でありただ迷い続けていた。にも関わらず、こうして守護天使という大役を任せられるのを控えるまでに成長できたことを、ラフェットは喜ばしく思いかつそれが確かなものであると確信しているようだ。

「人間界には私も少ししか行ったことないけれど、天使界じゃ見れない面白いものがいっぱいあるわ。しっかりと見てらっしゃい。」

 そして、最後にそう告げると共に微笑を見せると、ラフェットもまた自分の役割へと戻るべく、神殿の中へと帰って行った。
「………。」
 人間を見守る役目を与えられた天使と言う存在。近いうちにその人間の住まう世界に降り立ち、多くのことを学ぶことになるだろう。ネールは未だ虚ろな影を色濃く残す己の心に微かな期待と不安を映し出しながら、神殿の淵より下界を見下ろしていた。



〜序曲 虚空に残る記憶の残滓〜 (完)

 開始直後のDQ主人公は何も持っていないことをイメージして書いてみました。DQ9は特に主人公の出自が分からないから、その辺りはぼかさざるを得ないかと。ついでにネールの姿形もこの話ではほとんど触れていないのです。自由にキャラメイクができる以上、今はとりあえず主人公の姿は自分で想像していただこうという変な試みであったりとか。
 全体的に皆人柄が丸くなってしまった感が強そうです。にしても、オープニング前までに、イザヤールお師匠様は主人公にどのような厳しい指導をしていたんだろうな…。