序曲 二
幼き弟子

 天を仰げば闇に瞬く星々が見える。

「あ、ネール。おはよう。」

 そのような星空の下に集った者達は、一人の来訪者が来るのを見た。ここにいる者達は全て頭上に光の輪を戴き、背中に小さな白い翼を宿している。それは、人々を見守る使命を持った天使達であった。彼らのいずれも体は小さく、まるで子供のような姿形をしていた。
「まさか、お前がイザヤール様の弟子になるなんて思わなかったよ。」
 遅れてきた者―ネールと呼ばれた仲間に対して、一人の天使がその顔を見上げながら信じられないような口調でそう零していた。
「大丈夫かね…。お前ってしっかりしているようで、意外とドジだからなー…。」
「ああ、そうかもね。何か肝心なところがよく抜けてたりとか…」
 背丈こそ皆の中で頭一つ大きいが、道に迷ったようなぎこちない振る舞いがどこか頼りなく感じられる。友人として共に過ごす中で実際にあった思い出も交えて、皆がそのような話をし始めていた。
「ちょっと皆、ネールが困ってるよ。」
 そんな彼らを前に、ネールは気恥しさのあまりおずおずと後じさるのみだった。その様子を見て、一人の少年が話を切るように皆にそう告げた。
「あら、ごめんあそばせ。」
「わりぃ。…けどよぉ、やっぱ可笑しいじゃねぇか?ネールなんかがイザヤール様の弟子になるなんてよ。」
 彼の言葉に、疑問を共にして語らっていた天使の子達は一時の間で我に返った。だが、それでも幾人かは未だに納得できない意を言葉に出していた。
「まぁ、何だかんだでネールが一番成績良かったからね。ぼくらが心配する方がどうかしてるよ。」
 突出した才能が見て取れるわけではなく大きな力もない。それでも、ネールが名高い師に師事することになるだけの理由は少なからずあるのは確かだった。
「じゃ、今日も頑張ってね。」
「相手がイザヤール様でも、くじけちゃだめだぜ。」
 今日もまた厳しい修行へと赴くネールを、友人たる小さな天使達は激励の言葉と共に見送っていた。



 神殿の石段を、小さな足で軽快に走り抜けると共に心地良い音が薄ら明るい星空へと溶けていく。

「ああ、ネールか。早かったな。」

 そこで待ち続けていた者が、ここにやってきた弟子へとそう応じた。背中に生えた白く大きな翼と頭上にある清浄なる光の輪を持つ誇り高き天使。
「さて、今日も始めようか。まずは剣の稽古からだな。」
 彼がそう告げると、ネールはすぐに一礼して師の傍らへと歩み寄った。そして、腰に差した剣を取って正面に構える。
「準備運動の段階から怠るなよ。その細かい心がけが、お前を強くするんだ。」
 腕に力を入れ過ぎ、背筋も伸びない滑稽な構えをそれとなく正しつつ、上位の天使は弟子が修行に励む姿を真っ直ぐに見守り続けた。


 金属同士がぶつかり合う甲高い音と共に、一振りの剣が空高く弾き飛ばされて遠くに投げ出される。

「これまでだな。」

 終わりの宣告と共に見下ろす瞳を、ネールはただ尻餅をついたまま呆然と見上げていた。右手に握ったはずの剣はその切っ先を遠くの草地へと突き立てて、倒れることなく身を立てていた。剣を取った師の気迫は、普段もてはやされるそれよりも更に上回り、揺るぎない何かに守られているかのようであった。
「まだまだ修行が足りないが…今日の動きは良かったぞ。しっかり覚えておけ。」
 結果こそ見れば呆気なかったものの、ここに至るまでの応酬で見せた弟子の動きは期待に沿うものであった。
「実践を重ねれば、きっとお前の身になってくるはずだ。鍛練を怠らないようにな。」
 自分の教えを守り、正しい動きを最後まで崩さなかった弟子に、上位の天使は実に感心した様子であった。
「また、泣いているな…やれやれ。泣き虫ネールと噂されるわけだな…。」
 だが、肝心のネールはただ地面にへたり込んで、鍛練の終わりになって張り詰めてきた緊張の糸が切れたのか、両の瞳から涙を零しながら声を押し殺して泣いていた。
 確かにより強い天使とするべく幾分厳しい稽古を行っていたが、泣かせる程に辛くあたったつもりは全くない。そして、ネール自身も体力と気力の限界を超えてなお、拙いながらも最後まで熱心に自らを磨く姿勢を崩すこともなく、これを責める必要はない。それでも、やはりこの幼い子供には過酷であったらしい。
 生来の心の弱さのためによく涙する弟子を、上位の天使はいつものように面倒臭そうになだめていた。だが、その表情は我が子を見守る親のようにとても暖かなものであった。

「よし。では、少し休んだら今度は人間の心について学ぶとしよう。」

 しばらくしてネールの嗚咽が止んだところで、師はゆっくりと立ち上がって手を差し伸べていた。
「そうだ。我ら天使の役目を果たすのに最も必要なことだ。」
 天使にとっては当たり前であるはずの人の運命に携わる使命も、虚無の中よりやってきたかのように何も知らないネールにはあずかり知らぬことだった。だからこそ、些細なことであれ前進したのであればそれは喜ばしいものである。泣き腫らしたばかりの目を明るく輝かせながら見上げる弟子の姿に何を感じたのか、師は小さく頷いて、差し出された小さな手をしっかりと握りしめて立ち上がらせた。



 力を使い果たしたように、一歩一歩が重く感じられる。心身ともに既に限界に近づいており、今はただ休息を欲しているところであった。

「あら、ネールじゃない。」

 あるべき場所へと帰ろうと道を行く途中、ネールは通りかかった者に声をかけられた。
「すっかり疲れちゃったみたいね。でも、どうしたの?嬉しそうな顔して。」
 見上げた先には、赤い髪と背中の白く大きな翼をもった、美しい女性天使の姿があった。慈母のようにネールを優しく出迎えながら、厳しい修行より帰ってきて疲れ果てている中で幼子が見せる微かな笑顔を不思議に思って小首を傾げていた。
「まぁ、そんなことが…。イザヤールも素直じゃないわねぇ…ふふふ。」
 問われて自然にネールの口から零れる師との間であった出来事を聞き、彼女は少々驚嘆した後に不意に口元を悪戯っぽい笑みで歪めていた。
「あ…な、何でもないの。気にしないで。イザヤールには絶対内緒よ?いい、こ…これは命令よ?
 一体何がおかしいのかネールが不思議そうに首を傾げて見つめているのに気が付いて、彼女は慌ててそう釘を刺した。その顔は気恥しそうに微かに赤く染められていた。
「…って、命令しなくてもあなたが告げ口するはずもないわよね。」
 が、すぐにネールの本質に立ち返って、少々罰が悪そうにそう呟いた。
「何も知らないっていつも自分で言ってるけど、あなたは本当に正直で優しい良い子よ。その心をずっと忘れないでね。」
 働きかけがなければ何一つ話そうとしない寡黙な振舞いは元より、他者を思いやる心を持ち合わせていることは、友であるイザヤールの下に師事する以前より見守ってきた自分もよく知っている。それを伝えるようにしてそう告げながら、美しき天使は幼子の頭を優しく撫で上げていた。

「……。」

 愛おしげに見つめる彼女の瞳には曇り一つなく、見上げるネールのあどけない姿が写し鏡のように綺麗に映されていた。