序曲 一
虚空の迷い子

 暗い道を、ただひたすら歩いていた。自分がどうしてここにいるのかも、何をしたいのかも分からないままに。己が何者なのか、いかなる姿をしているのかすらも知らなかった。
 理すら届かない虚無の世界。光も闇もない無の領域にいつから足を踏み入れたのだろう。だが、悠久の時か刹那の間かの違いなど意味を成さない。虚実を定める礎なき己の認識は、未だ生まれてすらいない赤子にも等しい。
 何も変わることのない静寂の中、感ずる心さえも元よりなかった。だが、そのような全てが凍りついたかのような空間であっても、時間は一刻、また一刻と確実に進み続けていた。

 ……ル

 ある瞬間に、遠くから誰かの声の断片が、この何もない空間に届いた。だが、この取るに足りない小さな一言が、この場を支配する無の理を崩す結果となった。

 そこに…いるんでしょう?

 再び声が伝わってくる。それも、今度ははっきりと。それだけではなく、呼びかけた声が聞こえた方向に、白く小さな光が灯るのが見える。それを中心とした闇が広がって見上げた先にある全てを覆い尽くし、そこに更に多くの光が現れ始める。
「きらきらひかる…おそらのほし……」
 もはや、ここは虚無と呼べるものではなくなっていた。無の一点から敷き詰められた闇の帳に次々と現れる光。微かに残る遠い記憶の中にあった、見上げた先に開けた満天の星空。いつ見たものかは分からない星々を見て、掠れながらも幼さを残したあどけない声で呟いていた。
「!」
 そのとき、星空による実を帯び始めた静寂の虚空を、一筋の強い光が尾を引いて横切った。閉じていく感覚に対して強く焼き付く光を受けて、朦朧とした意識の中に一つの標が示される。
「…ねが…いご………と…」
 天駆ける星が現れたそのときに念じられた願いは、その大いなる力によって叶えられる。それは、儚く幼い命にとっては絶対の理であった。




「…ぇ。…ねぇってば!!」

 不意に、甲高い声が響くと共に、虚空を彩る星々は霧散する様にして突然消え去った。
「もう、何度も呼んだのに。どうしたの?」
 代わりに現れたのは、不思議な程に清々しい気に満ちた石の神殿であった。目の前には、背中に小さな純白の翼を生やし、光の輪を頭に戴いた黒い髪の幼い少年が心配そうに首をかしげる姿が目に映る。
「星空?うん、今日も綺麗だよ。え?目の前にさっきまで…って、ここは神殿の中だよ。大丈夫?」
 先程までの星空は、あたかも夢であったかの様に消え去っていた。呆れた様な顔で見つめる少年を余所に辺りを見回すと、少年と同じように翼と光輪を有する人々が語らいの時を過ごしているのが見えた。穏やかでありながらも静寂とは程遠いものであった。
「それより、今日も遊ぼうよ。皆待ってるよ。」
 不可解なことに対して疑問を抱くのも束の間、少年は明るい声でそう告げた。その顔に浮かべられる屈託のない笑顔は、一点の穢れもなく、まさに天使と呼ぶに相応しい清純なものであった。
「さ、行こう。ネール!」
 そして、そう呼びかけると共に、彼は元気よく神殿の外へと走って行った。

「ネール…それが、……の名前?」

 促す声と共に告げられた言葉。それは、確かに自分を差す意味合いを持つ「名前」であると以前より知っていたはずだった。しかし、いつから自分はネールと呼ばれるようになったのだろう。何もない空間に先程までいたような感覚が、そのような疑問を生みだして、自分を定義づける根本的なものですら解せなくしている。




「ネール…人間界の最果てで『虚無』の意を冠する言葉か。」

 一人立ち止って何かを考え込んでいる幼子の姿を遠くから見守る者が、そう一人ごちていた。
「まるで、迷い子だな。」
「そうね…。自分が何者なのかもまだよく分かっていないみたい。」
 他の者達と同じく頭上に光の輪を戴き、背中に白く小さな翼を宿していながらも、その顔に映される憂いのような表情と右も左も分からぬ様にただ立ち尽くすだけの振舞いは一層の寂しさを感じさせる。
「ああ、聞けば天使である事すら認識していないそうだが。…どうなんだ、ラフェット?」
 自分が下した迷い子という評価に対して一つの私見を返した友人に、傍観者はそう尋ねた。
「ええ。あの子とは少しだけお話した事があるけど…最近じゃ自分の名前の事まで疑問に思ってるみたいね。」
「そんなことまで…やはり珍しいな。」
 仲間達と群れているように見えてもどこかぎこちなく、やはりその顔から孤独感は消えない。皆とどこかが違うような違和感が自分に対しての疑念を生み、それが言葉となったのをラフェットがたまたま聞くこととなったのだろうか。
「そうね…確かにすごく変わった子よ。でもね、イザヤール。あの子、真面目で良い子だから心配しなくていいと思うわ。」
 神が創った御使いたる自分達の中で、あの子供は間違いなく異質な部類に入るだろう。それでもラフェットは、一度出会ったその小さな天使から受ける印象を良く受け止めており、そう評していた。
「それは楽しみなことだ。だが、今のままでは迷うだけだろう。学ぶべきことは山とある。」
 例え今、多くの部分が未完であったとしても、真っ直ぐに物事と向き合う力があれば、道を進むことはできる。だが、世界の理を満足に解さないままでは、道そのものを見い出す術はない。
「あら、大分ネールのこと気に入ったみたいね?」
「……。」
 いつになく饒舌に言葉を続ける友人をどこかおかしく思えて、ラフェットはからかうようにして笑いかけていた。それに対してイザヤールは表情を崩さずにただ幼子を見守っていた…が、少々面白くなさそうに微かに眉を潜めているのが見えた。
「ふふ、いずれにせよ成長が楽しみね。」
「ああ…。」
 神殿に集う多くの者達よりも一際大きな翼を背負う二人の天使は、戯れてじゃれている小さな子供達の姿を見下ろして、穏やかな表情を浮かべた。


 それは、もはや鮮やかな面影など残さない、遠い日の記憶でしかなかった。