第二章 最初の出会い
第九話
金の冠の窃盗事件を受けて、ロマリアの城下で敷かれていた厳しい取締りの体制。その巻き添えを受けた青年が起こした一連の騒ぎ―この国を守る騎士達が総出で沈静に掛かったあの出来事から幾分時が経ち、その記憶も色あせんとしていた。
「あれは…」
そんな日々を人々が過ごしていたある日の昼、ロマリアの城下町の喧騒を行き交う者達の一人が、この場にあるまじき何かを視線の先に見い出して呆然と呟いていた。
「おい、あれって…まさか?」
その一人のただならぬ様子を不思議に思い、周りの皆もまたそちらへと向き直る。そして、最初の者が抱いた疑念の正体は、すぐに皆の目に入ることとなった。
「金の…冠……だよな?」
城外より連なる街道から、城下町へと歩みを進める三人の冒険者。その一人である小さな少女がさり気なく戴いているその煌きは、ロマリア王国に住まう者であれば誰もが馴染み深いものであった。
「何で、金の冠があんなところに…?」
カンダタ盗賊団に奪われたはずのロマリアの国宝―金の冠。それが今、何故かどこの馬とも知れぬ冒険者の一行の手の内にある。歩き続ける三人の脇で佇む民衆や旅人達の間で、どよめきが起こる。
「…なぁ、アレじゃないか?」
「アレって何だよ。」
不意に、三人の姿を見て何かを思い立ったのか、誰かが曖昧に言葉を発していた。
「ついこの前、誘いの洞窟から来たとかいう…」
「何?あいつがそうなのか?」
手だれ揃いのカンダタ盗賊団を前には、ロマリアの騎士団も敵わなかった。そんな彼らが有している金の冠をこのロマリアの地に取り戻せる程の実力の高さから、噂されている高名な強者を継ぐ者の存在が脳裏を過ぎる。
「まさか、こいつがあの…アリアハンの勇者…?」
そして、それとなく勇者たる雰囲気を纏っている長身の少女に、その面影が重ねられていた。血は争えない―そんな言葉を体現しているかのような奇縁な情景とも言えるものだった。
カンダタより金の冠を受け取ってからシャンパーニの塔を出発してこれまで来た道を戻り、レフィルはロマリアの地へとようやく帰還した。左腕の傷が落ち付きはじめ、かつ経験を積んだことが自信に繋がってのことか、先に辿ったその時にも増してその行程は順調に進んだ。
ともあれ、やはり長旅が応えているのかその顔には微かに疲労の色が浮かんでいた。
「…噂になっているな。」
「え?」
複雑に入り混じって不明瞭なざわめきとしか聞こえぬ噂話に耳を傾けて一人ごちたホレスに、レフィルは思わず足を止めていた。
「聞こえる。どいつもこいつも、お前のことが気になっている。新たな勇者としてな。」
「……。」
告げられて、初めて疲弊していたレフィルもその声の断片に意識を傾けていた。こちらは特に名乗ってすらいないはずなのに、父オルテガの噂が広がったこの地では既に自分の存在は広く―そして深く認識されているのだろう。
今もまた、ロマリアたっての悲願を叶えたことによって、皆が好奇と羨望、そして期待の眼差しを以って出迎えている。勇者という肩の荷は、ここでも下ろせそうになさそうだった。
「…というか、お前がそんなものをかぶってるから目立つんだよ。」
「む。」
…が、この騒ぎの発端となったものは、旅先で友となってくれた魔法使いの少女―ムーの仕業だった。
いつからか金の冠を白昼堂々と頭に戴いており、自分の三角帽子は小脇に抱えている。顔に湛える無表情と裏腹のひょうきんな仕草も相まって、多くの人々の目をこちらに集める原因となっていた。むしろ目立ちたいと言わんばかりの行動に呆れたように、ホレスはムーの襟首を摘まみ上げ、冠を取り上げた。
商業の活性の賜物か多くの家屋や店屋が乱立しているロマリアの城下であっても、城までの道のりは至って簡単なものだった。国を覆う外壁を除いては王城への道を遮るものはなく、城門からは城までただ真っ直ぐな道が続いていた。
このロマリアに到着してから再び王の下へとたどり着くのに、半刻も掛からなかった。
「おお、それこそが金の冠!やりましたな!さすがはレフィル殿!!」
帰りつき、目標の品を王へと返還したその時、王の傍らに控える小男がレフィルへとそう賛辞を贈っていた。
正直予想外だったのは、賊を徹底的に捕らえんと躍起になっているあの大臣の姿がどこにもなかったことだった。代わりに側に置かれているこの男からは、獄囚となっていたホレスへの敵意も、レフィルの力を疑っていた素振りも感じられない。
「ふむ…確かに金の冠じゃ。すまぬのぉ、余計な手間をかけて。」
「い…いえ……。」
そんなことを考えていると、王は自らの手で金の冠を改めて実物であると確かめると共に、レフィルへと労いの言葉をかけた。感謝を通り越して、逆に申し訳なささえ感じさせるような気の抜けた王の言葉に、レフィルは何と答えたらよいのか分からずにただたじろぐばかりであった。
「そしてホレスよ、よくぞ戻った!此度の件では大いに世話になったな!」
彼女が今にも混乱しそうな様子を微笑ましげに一瞥した後、王はレフィルの傍に立つ青年―ホレスへと力強くそう告げた。先のレフィルとは打って変わって、今度は心からの謝意を述べるものであるのは、気のせいではなかった。
「ふん…”アレ”を失うわけにはいかなかっただけだ。別にあんたのためじゃない。」
「なに、それなら尚更質屋のような真似をした甲斐があったというものだ。あやつに過ちを諭させることができたのも、そなたの働きによるものだ。」
元々この王にとって、ガラクタ当然の国宝など眼中になく、所詮は大臣の勝手であり、レフィル達に余計なことをさせてしまったことは変わりはなかった。過ちと知っても、普段の享楽的な姿勢から王の器たりえないと民衆に断じられ、やむなく政治から身を引いて横暴を許してきた。
こちらが何を言っても聞き届けられないそんな状況を打破するために必要なのは、思い切った決断だった。だからこそ、無実とはいえ囚人となっていたホレスを己の一存で釈放し、その技量を見込んでまだ未熟な勇者の供としての役割を行わせた。彼自身の大切な何かを意識させることで、それ以外の選択肢を失わせて…。
「流石にもはや軍を任せるようなことはできぬが、あやつの腕前は確かなものじゃ。捨てるには惜しいのだよ。」
「おい待て、まさかまだ……」
王の言い振りに、ホレスは信じがたいものを感じて思わず顔を怪訝に歪めていた。
ここにきて、あの大臣も己が最大の失態を犯した事実を実感することだろう。国宝を奪われたことで、この国が抜けがらのような扱いを受けるのを厭うがために出過ぎた真似をした。位を追われるのはまだ幸い、ともすれば国より放逐されても疑問の余地がない程の罪。
だが、王はそんな彼でさえもまだこの国に置こうと言っている。それが信じられなかった。
「あやつはあやつなりに直向きだっただけじゃ。なによりワシも楽をしたいからのぉ〜。」
今でこそ面子にとらわれてそんな失態を犯したが、己の手を汚すことを厭わぬ程にこの国の事態を誰よりも憂うことができる者は他にはいない。それを見越しての王の決断はいい加減なように聞こえたが、過ちを諭させた今はこれ以上の無茶は行わないと見てのことだった。今回の件を差し引けば、彼もまたこの平和なロマリア王国を的確に支えてきた重鎮である。だからこそ、その礎を悪戯に抜く愚行は行わなかった。
「それでいいのかよ……」
もっとも、その大臣によって直接的な被害を受けたホレスは、やはり納得のいかない気持ちを露にそう毒づいていたが。
―ホレスさんに、そんなことが…。
今の二人のやり取りを聞いて、レフィルはようやくホレスに何があったのか悟った。釈放された際に全ての荷物が返されたと聞いていたが、肝心の物は王の手の中にあった。初めからホレスはそのために自分についていただけで他意はなかったということか。分かり切っていたこととはいえ、やり切れない思いが渦巻くのを感じる。……何故、彼は率先して自分を助けてくれたのか。尚も残る疑問は数知れなかった。
「さて、レフィルよ。よくぞ無事に戻った。」
ホレスとのやり取りがひと段落したところで、王は改めてレフィルへと視線を移した。
「お…王様…あの……」
「ああ、語らずともよい。そなたが金の冠を携えて戻ったことが何よりの真実であろう。」
こうして帰ってきたものの、レフィルは結局何もできなかった。言い辛そうに旅の報告をしようとするレフィルの意を察して、王はすぐにそれを制した。旅も王との謁見もまともに慣れていない彼女に無理を強いることはない。そして、ホレスと共に金の冠を持って帰ってきた事実だけで十分満足だった。
「我がロマリア王国はそなたをアリアハンの勇者として、いつでもその来訪を歓迎しよう。」
傷ついた体で無茶を強いてしまった甲斐あってか、全てが良い方向へと向かおうとしている。顛末がどうあれ、その流れを作ったレフィルも、ロマリアを救った者としてそれなりの待遇を与えてやるのが相応の褒美というものだった。
「なぁに、斯様に難しく考えることなどあるまい。」
何を難しく考えているのか思わず困惑を露にするレフィルを見て、王は面白そうに笑みを浮かべつつ、玉座から腰を持ち上げた。
「必要とあらば、何でも申し上げるがよかろう…そなたが国と思ってな!」
そして、レフィルのすぐ前まで歩み寄りながら、唐突にそう告げた。
「……え?」
この時、レフィルは王が言わんとしていることを捉え切れず、間の抜けた声を上げながら首を傾げていた。そもそも、玉座から王が自ら腰を上げたところで、ただならぬことが起こる予感が頭を過っていた。
「ハッハッハ、ならんと欲しても中々なれぬものではないぞ。”王”たる者にはなぁ。」
「お…王っ!?」
だが、まさかそのようなことを言いだそうと、いつ予想できただろうか。
「然様。今日よりそなたがこの国の女王となるのだ!!」
「じょ…女王……って、ええええぇっ!?」
自分の国と思って―その国の主と思って―すなわち、王に任ぜられることになろうと、どうやったら予見することができただろうか。あまりに唐突な王の宣告に混乱し、レフィルは素っ頓狂な悲鳴を上げる口元を押さえるのが精一杯だった。
―な…何でわたしが王様にっ!?
王位につくこと自体を嫌と思ったことこそなくとも、決して手の届かない領域と思っていたはずだった。それ故に、どこかで自分などが、と思う節があったのかもしれない。ともかく突然過ぎて、レフィルには何が何だか分からなくなっていた。
「さぁ、早速戴冠式じゃ!!」
「ま…待っ…お…王様っ!?…って、わっ……きゃああああっ!!」
王の号令と共に、女中達がレフィルを取り囲み、一斉に手を取り始める。予めこの時のために備えていたのか、彼女達のあまりの手の速さにレフィルは慌てふためき、仕舞いにはバランスを崩して転んでしまった。
女中達は、目を回したままのレフィルを担ぎ上げるとそのまま謁見の間を出て王室の方へと去って行った。
「なんて無茶苦茶な…。」
有無を言わさずに半ば強引な王達の所業を前に、ホレスはまさに呆然とした様子でそう呟いていた。確かにロマリアの王が道楽者という噂は、レフィルと出会う以前から耳にしていたことであった。だが彼もまた、まさか国権の象徴たる王位を譲ろうとは考えもつかなかった。
人としての度量の大きさ以上に、王としての本分を弁えているかが疑わしい程に、理解し難い決断だった。
「青天の霹靂?」
朗らかに笑う王と、憮然とした面持ちのホレス、そして目を回しながら女中達に連れ去られていくレフィルの姿をキョロキョロと見回しつつ、ムーは首を傾げてそう一人ごちていた。
新ロマリア王―否、女王の戴冠式は、その日の内の即興とは思えぬ程に豪華な式となった。
他国の人間であるレフィルが王位につくのは一体どうしたことかと言う声が上がることも予測していたが、意外にもそのような者の姿は見受けることはなかった。歓声を上げる民衆の中に混じって、隣同士で退屈そうに話している者達もいたが、悪い感情を募らせた様子はどこにもなく、慣れたことのように至って気楽に過ごしていた。
そうした意味では、周囲に気を使い過ぎてしまう程に引っ込み思案なレフィルにとっては、好ましい式典とも言えた。
その翌日も、町の随所で式典の熱の残り香が未だに垣間見られた。彼女と初めて出会い、出発前に泊まった宿の酒場もまた、例外ではなかった。
その中の一席に、ホレスは少し疲れた様子で腰かけていた。ロマリア王国に入るなり騎士達に追われて投獄され、その途中で出会った傷ついた勇者の子と行動を共にすることになってから、予想以上に色々とあった。
―これで、ひと段落か……。
だが、全てが終わった今になって、ようやく一息つくことができる。
大臣が勝手にかけた冤罪も、王の計らいによって解かれていた。幸いなことに、レフィルの救命に一役買っていたのが噂になっていたためか、そもそも金の冠を私欲で盗むような話を信じる者も、尚もそれを引きずる者も誰もいなかった。そして……
「こいつも…戻ってきたことだしな。」
ホレスの傍らに置いてあるのは、懐に収まりそうな程に小さな箱だった。弧を描くように丸みを帯びた上蓋と、直方体の形をした下の部分から、典型的な宝箱を思わせる。箱全体が綺麗な細工を施された金の外枠に覆われて、上蓋の中心には静かな光を湛える赤い宝珠がはめ込まれている。美術品としても相応の価値を持つ品であることは間違いなかった。
もっとも、ホレスにとってはそれ以上の意味合いがあったが、それを知る者は誰もいなかった。
「……で、これが今回の報酬か。随分と気前の良いことだ。」
他の宝物を手放してきた中でただ一つ残り、そして今また戻ってきた大切な品をしまいながら、ホレスは取りつけられた袋の一つをおもむろに手に取って封を解いて、テーブルの上に置いた。金属同士が打ち合って鳴る小奇麗な音が耳をつく。袋の中には、大量のゴールド金貨―ざっと見ても十分すぎる程の大金がぎっしりと詰められていた。
この量からすると、慰謝料のようなものも入っているに違いない。口外しても互いに只事では済まない中での、王のせめてもの手向けといった所だろう。こちらの宝を担保として勝手に取り上げるような真似をした割に、このような所で律義になっているロマリア王に、憎めない感情が微かに起こる。
「へぇ…一万ゴールドくらいあるんじゃねえか?、それなら当分食うに困らねえな。」
ふと、誰かが金袋に目を向けながらそう話しかける声が耳に入る。
「流石はノアニールを救った英雄ってか。この国で暴れてお尋ね者になったとか聞いたけどよ、まぁ大したモンだぜ。」
先程から、こちらに近づく足音は聞こえていたが、この言い振りから向こうはホレスの名声をよく知っているらしい。お尋ね者になったにも関わらずそれに見合わぬ巨額の金を手に入れている様を見て不思議に思い、そして以前に成した大事を思い返して改めて感心の念に至っているようだった。
「あんたは確か……」
振り向くと、そこには自分よりも少し年上と見受けられる黒の長髪の青年が立っていた。額には金色のサークレットを戴き、体には異様な紋様が描かれた不思議な意匠の蒼い鎧を纏っている。気さくに話しかけてくるその態度とは裏腹に、顔には不敵な笑みを浮かべており、どこか油断ならない雰囲気を醸し出していた。
「お?俺のことを知ってんのか。光栄だねぇ。」
直接の面識はなくとも、ホレスにはその姿から感ずるものに憶えがあった。ある程度その世界に踏み入った冒険者であれば、誰もが自ずと聞くことになる名前。そして、伝え聞かされる風貌に違わぬ姿。ホレスは一見して、彼が噂されるその人であると悟っていた。
―……あまり、関係ないか。
確かに、彼ほどの人物が自ら語りかけてくるのは普通のことではない。それでも、今のホレスにとっては特に大きな意味はない。隣に座って親しげに肩を並べてくる男と、ただ冒険者同士としてしばらく語り合っていた。
「流石にたった一人で東から来ただけのことはあるじゃねえか。お前さんも、その内世界に名を轟かせることになるだろうぜ。」
「名には興味はないな…。今回のような面倒事は二度とごめんだからな。」
「おいおい、あんまり後ろ向きに考えるなって。そりゃあ無実の罪でブタ箱にぶちこまれりゃ誰だってヘコむだろうけどよ。」
「あのな……。」
名の通った冒険者であっても、気兼ねなく話せる場では壁を感じさせない。冗談も交えた会話に飄飄としたものを感じながらも、どこかいい加減さが滲み出ている様には呆れさえも覚えていた。
「じゃ、俺も見に行くかね。新しいロマリアの女王サマとやらをな。」
話がひと段落ついた所で男は、どこかふざけた意図を含んだようにそう言い放ちながらゆっくりと席を立った。
「……野次馬か。」
「ハッ、そりゃあ大物ライバルの出現は放っておけねえだろ。それもオルテガの娘だって言うじゃねえか。興味ねえヤツなんていねぇだろう。」
ロマリアの女王となったとはいえ、まだアリアハンの勇者としての役目を終えたわけではない。いずれまた旅立つ時も来るだろう。旅慣れぬ故に多くの拙さを見せながらも、結果として金の冠を取り戻してみせたことで名声を高めている事実は、いずれこの先更に名を上げる可能性を感じさせる。そんなことから、男は純粋に彼女に興味を抱いていた。
「ま、それはお前さんも似たようなモンかもしれねえけどな、ははっ。」
「………。」
笑いながら告げられる言葉を黙って耳に留めながら、ホレスは去り行く男の背中を静かに眺めていた。背負われている大剣の鞘から、微かに金色の光が漏れ出ているような気がした。
「…で、あいつ…ちょっと目を離した隙にどこ行きやがった?」
男がこの場から去ってから、ホレスはいつの間にかいなくなった一人の存在を思い出し、気だるそうに嘆息していた。
「……くしっ!」
その時丁度、別所で小さなくしゃみが喧騒の中に消えていた。
「ふむ、引きが悪いあまりに身も震えるか。ムー嬢よ。」
「…む。」
くしゃみをした赤髪の少女―ムーを見て、貴族を思わせる豪奢な服装の壮年の男が隣から思わず笑みを零していた。
「さてェ、次の試合が始まるのぉ。」
地下に大きく開けた円形の空洞―その中心に巨大な闘技場が設けられている。そこで、先程まで手に汗握る戦いが繰り広げられていた。常軌を逸する程に巨大な大鷲―ガルーダと丸太のような腕を持つ巨漢の熊―グリズリー、それらを初めとする凶暴で手のつけようのない魔物達が飼いならされ、激しい戦いを繰り広げている。
ロマリア国民の娯楽施設として有名なモンスター闘技場。どの魔物が優位に立つかを予想して賭け金を払い、見事当てた者には割り当てられた倍率が返ってくる。そんなスリルと興奮の連続が待つ博徒達の聖地として知られていた。
「どうしてあそこで…。」
複数の魔物が入り乱れて戦う状況である以上、不慮の事態が起こるのも珍しくはなかった。ムーもまた例外ではなく、本命の魔物に多額の賭け金を払っていたのが裏目に出て大損を喫していた。それが不満なのか、無表情でありながらも、実に悔しさを感じさせる一言が呟かれる。
「ハッハッハ、何度やってもワシには勝てぬよ。」
それに対して、男の方は勝負に勝ったらしく、多数の賭け札を扇のように広げて愉快そうに仰いでいた。
「あれはスライムが勝つ勝負だったんじゃよ。ハッハッハ!」
「むー…?」
訳の分からない理屈を持ち出しつつ意地悪そうに頭を撫でる男に対し、ムーは未だ勝負の勝手が分からずに唸るしかなかった。それでも何故か、彼にだけは負けたくない、そんな気持ちが沸々と湧きあがってくるような気がした。
そしてもう一人……
「そ…そうか…。では、さ…下がってよいぞ。」
ロマリア王城の謁見の間の玉座に腰かけつつ、彼女は上擦った声を必死に絞り出して、眼前に跪いている一人の兵士へとそう告げていた。
「はっ!」
声を震わせて、弱々しさを前面に出してしまっている主とは対照的に、兵士は朗らかささえも感じさせる程に明瞭に応え、整然とした様子で下がっていった。それはまるで、名君に仕える喜びを表しているようにも見えた。
「お疲れ様でした、女王陛下。謁見のお時間はもう終わりです。」
「う…うむ。」
謁見の間に訪問者が誰もいなくなったことを認めると、右の玉座に控えていた王女が近くに寄り添い、労いの言葉を掛けてきた。否、王女ではなく、元王女と言うべきだろうか。
「ふぅ…。」
何とも言えない疲労感のあまり、現ロマリア王―レフィルは体中に張り詰めていた力を解いて、王座の背もたれに身を委ねていた。厚みを感じさせるマゼンタ色の外套に胸元が大きく開かれた藍色のドレス、そして自ら取り戻した金の冠。それらの品を纏ったレフィルは、一目見ただけならば氷のように静かな表情とすらりとした長身も相まって、女だてらに王者としての風格を備えているようにも見えるのだが……
―いつまでこんな口調でいればいいんだろう……。
やはりレフィル本人は、この王と言う役目に未だに気遅れを感じていた。確かに半ば無理やり押し付けられたとはいえ、王位に就くことで得られるものに不満はなかった。だが、如何に王の戯れとはいえ、庶民の一人でしかない自分がこんな立場に居ていいのか。それよりも、言葉遣いを変えるように言い包められた意味が、未だによく分らなかった。
―それに…王様、どこ行っちゃったのかな…。
そして、王位を押し付けたロマリア元王は、戴冠式が終わるなり一目を盗んでこの城からいなくなっていた。今の兵士と行ったやり取りもまた、失踪した王の行方の件に他ならない。聞けば、以前も王位の譲渡を行っていたらしく、後に帰還した折にも何処から来たのか分からずじまいであったという。
「まだお城に慣れないとお見受けしますわ。しばらくお散歩に出かけられては如何ですか?」
途方に暮れさえしようとしていたところで、王女はレフィルの身を案じてかそう進言した。
「大丈夫ですわ、レフィル様。このままこの国を治めていただいても、皆はきっと幸せです。」
「それはちょっと……」
…が、次いで安心させるように告げられた言葉に、レフィルは思わずたじろいでいた。まだ旅を続けなければならない身としてそれが冗談だとは分かっていたが、そうなってしまったことが無意識に頭に浮かぶなり複雑な気分にさせられる。幸い、この国の基盤がしっかりしているのか、執り行わなければならないことは然程ではなかったが、このまま治め続けられる自信など、彼女には無論のこと全くなかった。
王女の勧めに従い、レフィルは謁見の間を出て城の散策をしていた。
「女王陛下は私の…い、いや、我々の太陽でありますっ!!」
たまたま辿りついた兵士の詰め所に足を踏み入れるなり、その入口に立っていた兵士が引き攣った声でそう叫んでいた。目上の者に対する畏怖とはまた違う感情を、微かに赤面した顔から読み取ることができる。
「まさか…カミさんだけじゃなく、女王様にまで尻にしかれるたぁな…って、女王様ぁ!?」
無骨な木製のテーブルに突っ伏しながら同僚と話している別の兵士が何やら恨めしそうに愚痴を零した直後に周りの者達の異変を感じた―時には既に遅く、目の前に女王本人の姿を見るなり腰を抜かしていた。
「え…えっと……、あの……。」
周りの者達も自分の登場に少なからず驚いているようだったが、まさかここまでとは思わなかった。元より咎める気などレフィルにはなかったが、このような反応を返されてしまうとますますどうしたらいいか分からなくなる気がした。
「いやいやいや、別に不服ってワケじゃあ…。それよりも…女王となられたのは陛下が初めてのことで。」
「初めて?」
「へぇ、陛下以前にも王位の譲渡は幾度か行われておりましたが、やはり皆男の王だったものでして。」
「そうなんだ…。」
秩序を長いこと維持してきたロマリア国を支えてきたのは代々男の王であり、今の代になってあの王によって譲位が行われてからもそれは例外ではなかった。それ故に、女であるレフィルがその位に就いていること自体が、長年の歴史を覆すことであった。
城の中を見て回る内に、中で働く多くの者達を見て時には言葉も交わしながら、いつしかレフィルは中庭へと戻っていた。
「やっぱり、綺麗な庭だな…。」
誘いの洞窟で瀕死の重傷を負って目覚めた折にも見た、庭師の手によって支えられている美しい庭園。まもなく天頂に昇らんとしている日の光が、更に生気溢れる彩りをもたらしている。
―やっぱり、変なのかな……。
心洗われるような光景に和みながら、レフィルは先程までに出会った者達とのひとときを思い出していた。見れば見る程、兵士達や民達が自分を見る目に違和感を感じてならない。
その源泉となっているのは、やはりロマリア初の女王となったことか、それとも勇者の娘に対する思いか。彼らが見せた表情からは、そのようなものが容易に感じ取ることができた。
―でも、わたしは……
だが、彼らが求める物など持ち合わせていないと、レフィルは改めて痛感することになった。ロマリアで最初に女王となるだけの手柄―金の冠の奪還の時も、結局は何もできずに終わっている。
結局今の自分を支えているものは、全て幻に等しい程の儚いものに過ぎないのかもしれない……。
「いい王様振りじゃねえか、なぁ勇者サマ。」
微かに流れる風に揺られる庭園の花畑を眺めながらそんな途方もないことを考えていると、意識の外から呼びかけられたように、誰かの声が耳に入ってきた。
「いやいや、結構サマになってるぜ。」
振り返った先にいたのは、蒼い鎧を纏い、金色のサークレットを身に付けた長身の男性だった。その物言いに違わぬ大らかさを柔和な表情として表している。
「あなたは……?」
まるで年来の友のように親しげに話しかけてきた男の意図が分からず、レフィルは目を瞬かせながら首を傾げた。レフィルが背負わされた名声を尊ぶわけでもなく、女王への謁見を望んでいるのとも違う。一体何をしにきたのか。
「おっと、これは失礼。」
確かに、王族でなくとも初対面の人間にいきなりここまで馴れ馴れしく近寄ろうものなら、訝しがられても仕方ない。男は大仰に仰け反りつつ後ろに数歩下がり、その場に跪いた。
「お初にお目にかかります、レフィル女王陛下。わたくしめはサイアスと申すしがない冒険者にございます。どうぞお見知り置きを。」
そして、その黒の瞳を真っ直ぐにレフィルへと向けながら、男―サイアスはそう名乗り出た。
不真面目な印象を与える軽い言動と飄飄とした振舞いではあるものの、身に纏う鎧とその内から発せられる貫禄は、紛れもなく一流の冒険者のものであった。
だが、それ以上に近いようで遠い、遠いようで近い……そんな曖昧な距離感のようなものを、レフィルは心の何処かで感じていた。