序章 二
持たざる宝物
より多くの生ある者達が寄り集う、この世界の中心とも形容できる大陸の最果てに、ひっそりと佇む深き森。
深緑の奥は暗き陰に覆われて先が見えず、悪戯に踏み込めばその懐で彷徨う事になる。
その危険故に誰も立ち入る事もなく、ただ持てはやされる秘境や宝物の存在のみが噂となって一人歩きして、長い時だけが経ったある日の事であった。
夜の闇の一端に微かな異彩が見えたそのとき、依然謎に包まれたままのその森の中から、一つの黒い影が現れた。
夜明け前の微かな光が、その姿を少しずつ映し出していく…。
朝の凪に入ろうとする冷たい風が小さく揺らすは、長い旅路の中で汚れて輝きを失っている銀の髪と、額と頬に大きな傷跡が残る精悍な顔つき。
厚手の布で拵えられて橙に染め上げられた旅装束と黒金の胸当てで固めた痩身の体を、古びて裾が破けて解れている黒の外衣が包んでいる。
腰に巻いたベルトには短刀などの武器や、薬草などが詰められた巾着袋が下げられ、背中には大きな袋が担がれており、旅を続ける上で必要な荷物を数多く携えている姿が見える。
連れ合いは誰もおらず、ただ一人でただひたすら歩き続けている。
「また、アテが外れたな……」
ふと、森から暫く離れたところで後ろを振り返りながら、青年は至極落胆した様にそう呟いていた。
東の地の山脈を越えた先にある町で聞いた、伝説に序せられるとまでの秘宝の噂。
それは、誰しもが怖れて近寄る事すらない、呪われし北方の地の話であった。
遥か昔、人の子の本流より袂を分かち、神秘の森に生ける内にその加護を身に受けた者達。やがて彼らは伝説にのみ生ける存在―妖精と呼ばれる様になる。
人たるものが持ち得ない神秘の力をその身に秘め、人智を超えた宝物を数多く有し、更には人たる者の誰もが羨む美貌の持ち主だったとされている。そんな彼らの伝説は、夢見る者達にとっての憧れの存在となり、数多くの物語となって子供達に語り継がれてきた。
その妖精―エルフ達が大陸の北西の森に今も尚過ごしている。そんな絵空事の様な話など、誰も信じるはずもなかった。
エルフと呼ばれる異邦の者達が、その身を潜ませていた森の内より姿を現し、人へと災いをもたらしたその時までは…。
運河を渡す橋を渡り、山道の中にある辺境の村を経て辿り着いた、北の村―ノアニール。
森の深緑を色濃く宿し、木々と共に生きる人々の姿を垣間見させる自然の内にある村の全景。この地に纏わる話は、擁護者にして師であるあの男からいつしか教わった様な気がした。
だが、眼前に広がっていたのは、聞きしに似て非なる、村の酷い有様であった。
道は無秩序に生え続ける茂みによって乱れ、立ち並ぶ木々の家屋には蔦が絡まっている。
そして、この地に住まい村を行き交うはずの人々は一人として動く事なく、ただ穏やかな寝息だけを立てながら、静寂の内に佇んでいた。時という理の内より外されて、ただ眠る事を強いられ続ける。
そのあまりに異質にして理不尽な光景を目にしたとき、彼は囁かれていた噂が示唆していた事の意味を改めて理解した。
これが、妖精とやらが施した呪いと呼ぶべき忌まわしい力がもたらした結果なのだろう。
それから、宝物を探し求めるべくして更に西へと向かった先にある樹海で、ひょんな事から彼はその地に足を踏み入れる事となる。そこで、手向けられる武器と共に剥き出しの敵意をぶつけられた。
こうして彼が出遭ってしまったのは、妖精という無垢なる呼ばれとは全く趣を異にした、猜疑と拒絶に満ちたどこまでも人に近い存在であった。
エルフが宿す神秘の力を我が手にしようと外界からやってくる異人達に脅威を覚えて身を隠し続ける中で感じる、本質すら歪ませてしまう程の大きな怯え。
この恐怖の内で生きた彼らが自らを保つ術を求める中で、自分達を妖精と呼称し侵入者達を野蛮なる獣と蔑む様になる。
それが、元より一つであったはずの人の子達を二つに断じ、決して相容れぬものとなした。
聞けば、ノアニールの村に呪いをかけたのも、人とエルフの確執から来たものだったという。
エルフ達を統べる女王が手にしていた至宝が、その娘共々人間の男によって奪い去られたと聞いた。
私情に任せるままに報復を行う女王の行動も理解できず、ただ略奪にしか生きられない人の子の救い様のなさも否定できずにいたが、青年にとっては所詮は他人の揉め事に過ぎず、然程の興味は湧かなかった。
だが、その考えは探し求めていた秘宝に宿る真紅の煌きを目にしたその瞬間に変わった。、
魔物が住まう洞穴の果てにある地底湖の中央で見た、二人の男女の最期の記憶。
互いを想う事さえも許されない世から逃れんと至ったこの場で尚も、運命に抗い続けて力尽きるまでの一部始終。
あの世で再び巡り会わんと願う二人の愛とやらは、もはや相容れないものなどではなかった。
エルフの至宝―夢見るルビーに託された、エルフの王女とその恋人たる人の子の想い。
それは、旅路を生き延び目的を果たす事を第一とする青年の、明鏡の如く静かなる心を大きく揺さぶり、多くの感情を呼び起こした。
既に、長年欲してきた伝説の宝物になど未練はなかった。
人の欲によって翻弄されたが故に攫われたとされた娘が辿った運命。
乱暴に投げてよこされた至宝よりその記憶の残滓を感じ取った女王は、その凄絶なまでの後悔によって気が狂わんばかりに嘆き悲しんだ。
それでも尚、この悲劇を招いたのは人間として、女王はこの運命を呪い始めた。
だが、嘆きの矛先を再び人間に向けようとしてくる女王に対し、青年はついに激昂した。
結局何も分かっていない。分かろうともしない。
人の子だけではなく、愛する自らの娘をも否定しようとしている事が気に入らなかった。
一族全体が妖精なる高みに固執するがあまり、それに反して人を愛した王女がどれだけ苦悩し続けたのか。
何より、何故獣だという下らない欺瞞で娘が愛した大切な人と結ばれる事を母親として認めてやらなかったのか。
王女を一番追い詰めていたのは、母親である女王自身だった。
そう告げる青年に対して、女王は完全に返す言葉を失って、ただただ泣き咽び続けた。
夜が明けようとする時になって、青年は再びノアニールの村を訪れた。
村人達は未だ眠りから覚める気配はなく、静けさだけが広がっている。
「…これが、あの女王なりのケジメというものか。」
彼は村の風上に立ちながら、里を立ち去ろうとした際に女王より渡された、砂状のもので満たされた瓶を手に取っていた。
瓶の栓を抜き、粉を少し摘んで改めると、朝日を浴びてその光を反射して金色に輝いている様に見える。
「よし…」
風向きが村全体に行き届く様に吹いているのに満足した様にそう呟きながら、彼は瓶を静かに傾け始めた。
零れ落ちていく小さな粒が、風によってあおられてその流れに沿って村中へと広がっていく。
過ちを認めた女王が青年へと差し出した、呪いを解く鍵となる薬―目覚めの粉。
程なくしてそれは、村人達皆の体へと働きかけて、目覚めを促し始める。
「……もう、用は済んだな。」
元よりここを訪れたのは、夢見るルビーを求めての事である。それが手に入らない以上、ここにはもはや用はない。
次々と目覚めはじめるノアニールの住人達の声を遠くに聞きながら、彼はその場から踵を返して村を去っていった。
だが、夢見るルビーが青年に知らしめたのは、皮肉にもそうした宝物よりも大切な、心というものであった。
それは、それぞれが歩むべき道によって自ずと異なるのかもしれない。
それでも、元を辿れば人もエルフも大して変わりがない様に思える。
多くの謎を求めた果てにある答えのためならば、これまで積み重ねてきたものすら断ずる気概。
まさしくそれは、命知らずの冒険者としての青年を象徴するかの様であった。