微睡みから醒めた少女が最初に感じたのは、堅い布を通して伝わる手の感触だった。歩みに合わせて軽く揺れ動き、抱えられている背中と脚の素肌へ直に力が掛かるのを呼び水として、意識が急速に現実へと引き戻されていく。
「気がついたかね?」
目を開けると、聞き憶えのある老人の呼びかけが聞こえてきたと共に、抱えられていた体を床に降ろされて、静かに横たえられた。顔色を窺うようにのぞき込むその顔もまた、少女がよく知る者の顔だった。
「結界が張られておってな。今度は即座にそなたを呼び戻すことは叶わなかったが、無事で何よりじゃよ。」
それは、滅びゆくカール王国からの脱出の際に捕捉された時も救い出してくれた旅の扉の管理人、迷い人の町の神父だった。求道者気質の堅苦しさこそあれ町に尽くす献身的な姿勢と一介の神父に留まらぬ程の呪文や知識の数々で人々から慕われて、少女にとっても平時より馴染み深い男だった。
彼の到来による安堵で緊張が解れると共に、体に一様に触れている布の感触から己の状態を遅れて自覚して、顔が熱くなる程の羞恥を覚えた。死に瀕してからの窮地から救い出されたものの、鎧も服も一つ残らず剥ぎ取られている。流石に裸に等しい状態で全く平然と出来る程、彼女も逞しくはなかった。
「この剣に感謝しなければな。そなたを守り、私をここに導いたのだから、な。今とてそなたには必要なものじゃろう。」
それでも外套に身を包むように立ち上がろうとする少女を制するように、神父は幾つかの留め具と共に鞘を剣帯ごと差し出してきた。彼女の手元に落ちている折れた愛剣、破邪の剣。如何なる導きによるものか、それらを目印としてこの見知らぬ地に至ったらしい。
剣に細工がなされた形跡などなく、追跡の根幹となる原理すら知れない。それを心の片隅で訝みながらも、少女は身に纏った外套を解き、すぐに身体に巻き付けて留め具で固定し、剣帯を腰に巻き付ける。着心地こそ悪いものの、服として最低限の役目と動き易さは得られた。
「案ずるな。私はそなたの味方じゃよ。今も、昔も、これからもな。」
尚も不思議そうに破邪の剣を眺める少女の心を察したのか、神父は安心させるようにそう告げていた。何の仕掛けも施されていない剣から察したと言われようものならば、懐疑の念の一つも起こるだろう。
最初から見守ってきた程の思惑があることも否定せずに、それでも助ける意思に偽りはないと確かに伝わってくる。本能的に感じた違和感に引きずられて神父自身に疑う意思を悟らせてしまったことに、少女は素直に申し訳ない気持ちになった。
「……ともあれ、このような俗物共の戯れなど、早々に捻りつぶし、我らが町に戻らねばな。」
会話と思索の中でも歩みを止めず、二人は施設の最奥に向かっていく。その中で、神父が脱出よりもこの騒動の首謀者を排除することを優先していることを聞かされていた。
異界の者を付け狙い、それを盗み取らんとするこの世界に住まう小賢しき者、魔王軍の一つたる妖魔軍団長の肩書きを持つ魔族の老人・ザボエラ。我欲のために手段を選ばぬ彼を野放しにしては、異界の住民達に如何なる災厄がもたらされるか知れたものではない。危険な芽はこの場で摘み取るに越したことはないのは確かだった。
「見つけたぞ、盗人めが。」
通路を進む中で突然足を止めると共に神父の手が天井へと向けられ、辺りの空間がその双掌へと収束していく。巨大な竜の吸気の如く貪られたものが押し固められ、今にも弾け飛びそうに伸縮を繰り返している。先程少女のイオラに向けて放ったそれと酷似していながらも遥かに巨大で、それも一度に二つを練り込んでいた。
「イオナズン」
程なく神父が唱えた呪文により、右手に集められた力が巨大な光の矢と化して天井を穿った。貫かれて生じた亀裂から強烈な閃光が見えた次の瞬間、その天井諸共破壊した幾度もの大爆発の音が辺りに木霊した。
撒き散らされた光が止むと共に、イオナズンの呪文による凄絶な破壊の痕跡が少女の視界に映し出される。爆発の衝撃で砕かれてひび割れた壁を、あたかもつなぎ止めるように焦熱が飴細工の如く溶融させて固定している。そして上を仰げば、薄暗くも明らかに空と呼べる光景が、遮る物の一つもなく広がっていた。
「!」
不意に、その空の果てから、神父の放った光の矢と同じものが、こちらに射かけられるのが見えた。途中で砕けて炸裂し、矢雨の如く降り注ぐ。
「マホステ」
光の一つが少女へと牙を剥くと同時に、無意識の内に唱えられたマホステの力が彼女の身体を包み込む。突き刺さらんとしていた光の矢は、紫の霧に触れるなり溶けるように消え逝き、周囲に撒き散らされた幾度もの爆風と焦熱もまた少女には届かなく打ち消されていく。
「マホカンタ……か。まさか、お前までもがここに居ようとはな。」
神父もまた、左手に尚も練り上げられている光を盾として吸い尽くすことで光の矢を避け切っていた。同時に、敵の策とその術者の正体についても察した様子だった。
呪文返しと謳われるマホカンタの呪文。その云われの通り魔法力を反射して、神父自身のイオナズンの力をそのまま跳ね返してきた鏡面の如き光の壁がその術者の周りに張り巡らされている。
「それはこちらの台詞ですよ。今度は神父の真似事など、貴方らしくもない。まあ……お互い様でしょう。」
「互いに関係のないこととでも言いたいか、エビルプリーストよ。」
目の前に降り立ちつつ旧年来の友と相対したように語りかける男、エビルプリースト。名は体を表すかのような、人ならざる紫の肌と血のような赤い神官帽を戴いた魔族の神官だった。
「くくく、やはり只者ではなかったようじゃな。」
旧知の仲とも言えるように自然に言葉を交わす所に、上方から別の何者かが現れて、笑い声をあげていた。聞き覚えのあるその老人の声を聞くと共に、少女は身が凍り付くような感覚を覚えていた。
小柄で非力な老いたる魔法使いでありながら、一度は完膚なきまでの敗北を喫したその老人・ザボエラに対し、恐怖心がかき立てられる。
「……ふん、貴様のような盗人如きにここまで振り回されようなど、落ちるところまで落ちたものだ。」
「ふぇふぇふぇ、そう腐るには早いじゃろうて。これからその力を余さず絞り尽くしてやろうと言うのじゃからな。」
「下らん……」
それを払拭せんばかりに折れた破邪の剣を引き抜く側で、神父とザボエラが睨み合う。不敵な笑みを浮かべながら神父自身もまた研究の対象に過ぎないと称する敵の欲望に、神父は呆れと侮蔑を露わにしていた。
「しかし、この小娘一人のために乗り込んでこようとはまんざら今の暮らしも嫌いではなさそうで。」
さながら囚われの姫君を救い出すありふれた美談のような状況を皮肉りつつ、エビルプリーストと呼ばれた神官が饒舌に口を挟んできた。
「もっとも、大方貴方もそやつに眠るかの悪魔の力が目的なのでしょうが。元を正せば貴方もまた邪教の使徒なのですから。」
ただの仲間一人のために、皆から頼られる程の力と責務を暇する危険性が分からぬはずがない。禁を破ってまで救出に踏み出した最たる理由は、その根底すらも覆すものに他ならない。
その言葉が正しければ、少女に纏わる不可思議な現象の根源、悪魔と呼ばれる存在こそが事の発端であり、神父もまたその事象に縁ある者であるのは間違いなかった。
「今更驚いているのか。そんな男に付いていこうなど笑止千万よな、小娘よ。」
少女自身も神父から不穏ものを薄々感じていたつもりだったが、町の重鎮が悪魔を崇める神官だったと聞いて何も感じぬはずはない。その僅かな動揺を見抜いたのか、エビルプリーストが嘲笑を浮かべていた。
「それを知った上であくまで刃向かうか。本来お前達人間の敵でしかないその男を信じようと言うのかね?」
揺さぶりをかける狙いこそあれ、決して口先だけの虚言ではない事実。そう知りながらも、少女の剣は尚も二人の魔族に向けられていた。
得体の知れぬ人物の手を借りなければならない。そのような思考を植え付けられながらも、少女がなすことは何も変わりはなかった。
「ふん……余計な真似をしてくれたな、盗人共めが。」
研究に用いんとせんがための治癒と洗脳を施し、悪あがきとして下らない情報を吹き込んで余計な混乱を招いた者達に、神父はただ苛立ちを露わにするだけだった。少女もまた、いたずらに不和を生み、それに付け入って食い物にしようとする魔族達に心底の不快を露わにしていた。
もはや語る言葉もなく、神父が再び練り上げたイオナズンの力たる光の矢がザボエラ目掛けて飛来し、押し込められた空間がその眼前で爆ぜ散り、視界を覆う無数の爆発が巻き起こされる。
「バカめ、同じ呪文がワシに通用すると思うたか!」
だが、爆炎の中でザボエラがそう一喝する声が聞こえると共に、イオナズンの力が一瞬にして一点へと引き寄せられた。
「マホキテ……いや、違う。」
光が止んだ後に見えたのは、ザボエラの周囲に立ち上る魔法力の衣に、イオナズンの光が取り込まれている様子だった。
「やはりお主はイオを得手としておるようじゃな。故に使わせて貰ったぞ、このマホプラウスをな。最早そのイオの力はワシの糧に等しいわい。」
見覚えのある呪文とも挙動が違うのを怪訝に思い身構えていると、ザボエラが至極愉快な様子でその現象の正体を簡潔に口走っていた。
相手の呪文の力を吸収して己のものとする性質を有するマホプラウスの呪文。それにより爆発系の呪文の魔法力を吸い取り、結果として無力化してザボエラに優位な状況が作り出されていた。
「……喋りすぎだ、下郎めが。」
口やかましいザボエラの言に呆れたように嘆息しながら、神父はもう一方の手を繰り出しつつ呪文の力を発動していた。かざされた手のひらに集まった魔法力が引き起こされた焦熱が放射され、周囲に炎をまき散らしながらもザボエラ一人を狙って撃ち出される。
「ベギラゴン……か。極大呪文を片手で操ろうなどな。くくく……」
辺りの空気すらも焼き付くす熱気を前にしても、ザボエラはただ不敵に笑いながら、神父の挙動の一つ一つを観察していた。さも当然のように、イオとギラの奥義たる極大呪文を操って見せており、その顔には疲労の一つもない。
それはたゆまぬ修練を以てしても成し遂げることのできない、脆弱な人間とは思えぬ程の魔法力を初めとした天賦の才によりなせる技だった。
「……今度はマホステか。そなた如きに操れるものではないはずなのだがな。」
巨大な一条の熱線と化しているベギラゴンは、ザボエラの周囲に球状に張り巡らされた紫の霧、マホステの産物によって反らされていた。そうして彼如きの小者にあっさりかわされたことに、神父はあからさまな嫌悪の念を吐き捨てていた。
「片手で極大呪文二つも扱っておきながら、今更常識を語るか。お主も所詮は己の才覚に自惚れるバカだったとは残念じゃな。」
極大呪文と称される程の強大な呪文を操るに際しては、本来両手を使わねばならないのが、この世界での覆し難き理のはずだった。それをあざ笑うようにイオナズンとベギラゴンについてを片手で、それも間髪入れずに発動されては摂理も何もあったものではない。
そんな化け物じみた者がこちらの資質云々を語ろうなど、ザボエラにはこの上なく滑稽な話だった。
「どれ、お主の力、そのまま返してくれようか。お主とて己の力が斯様なものか、少しは興味があるじゃろうて。」
遙かに格上の相手ですら翻弄し、その力をかすめ取った現状にザボエラは確かな優越感を覚えていた。如何に力があろうとも、侮りに囚われていては付け入る隙など幾らでもある。
構えながらも後手に回って苛立ちを露わにしている神父に、ザボエラは不敵に笑いかけながらも油断なく対峙している。おもむろにかざされた手のひらに、マホプラウスが吸収したイオナズンの魔法力が集い、巨大な光球を形作り始める。
「バイキルト」
「!」
それが放たれようとした瞬間、突然少女が呪文を口ずさむと共に手にした破邪の剣を素早く振り抜いた。折れた刀身にバイキルトにより呼び起こされた彼女の力が纏いつき、空を斬る一閃と共に刃と化してザボエラとエビルプリーストに飛来する。
「なっ……、あの距離から!?」
剣の間合いから遙かに離れた位置から繰り出された形なき斬撃が光の壁を前に弾け、火花を散らす。その思わぬ攻撃を目の当たりにして、エビルプリーストは驚愕を露わにしていた。
「五月雨剣・斬空、か。よもや身体で覚えていようとはな。」
神父もまた、少女が放った技に見入り、その正体を察していた。
五月雨剣、それは雨の如き無数の剣閃で敵勢をまとめて薙払わんと編み出され続けてきた剣の流派の一つだった。時には今のように剣に力を纏わせて、文字通りの斬撃の雨を浴びせる型も存在していた。
少女自身がその剣技を会得するべく誰かに師事したことはない。記憶の彼方にて身体に刻まれた技を生来の天賦の武技の才により呼び起こしたものに相違ないと神父は察していた。
「だが無駄だ! この守りをその程度の攻撃で貫けると思っ……!?」
「守りを固めろ、司祭殿!!」
「……!!」
奇襲に驚くも、結界に阻まれて消え失せたそよ風程度の一撃に過ぎぬと知り、エビルプリーストが強気に一喝したその時、間髪入れずにザボエラが警鐘を鳴らすのを聞き、気付かなかった異変を目の当たりにすることになった。
「ば、バカな……!? 呪文の力が……っ!?」
ザボエラが纏っていたマホプラウスとそれに吸収されたはずのイオナズンの力、そしてベギラゴンを遮ったマホステを含め、全てが消え失せている。程なくして、エビルプリーストが張り巡らせていたマホカンタを初めとする守りの結界がまとめて砕け散り、虚空へと消えていく。
我に返った時には既に遅く、神父が再び練り上げた光の矢が二人の間に突き刺さり、荒れ狂う無数の爆発の中へと飲み込まれていた。
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