見えざる畏怖2

 ベンガーナ百貨店の地下から突如として現れた赤い鱗に覆われた幾つもの柱の如きもの。それは最下層から屋上に至るまでを一瞬にして貫き、内部へと燃え盛る炎をも捲き散らしていた。
 商店街を行く中で平穏を堪能していた人々は、突然現れたその脅威に対して何も出来ず、ある者ほ天高く打ち上げられ、ある者は炎に巻かれ、またある者は崩れ落ちる瓦礫に押し潰されて呆気なく絶命していった。
 生き延びた人々も、恐慌に陥ったまま空を仰ぐと共に見たものを前に更なる恐怖に駆られ始めた。

「ひ、ヒドラだああ!!!」
「う、うわあああああああ!!」

 そこには赤い首を有する竜が、口に炎を含んだままこちらを睨みつけているのが見えた。その背後にもまた、同じ姿を持つ四匹の竜…否、胴を同じくする四つの竜の頭部が控えていた。襲撃者たる五頭の竜−ヒドラに怖れをなした人々は混乱を深めたまま無秩序に逃げ惑い始めた。
 そのおぞましい姿を見て尚も勇気を奮い立たせて立ち向かう者達もいたが、彼らの武器は鋼鉄のような鱗により弾かれ、そのまま爪牙にかかるか炎の餌食になっていく。

 気が付いたら、砂塵の舞う瓦礫の中へと生き埋めにされていた。鎧に守られていたお陰で五体満足で済んでこそいたが、兜もなしに瓦礫を頭にも受けてしまったのか、鈍い痛みを感じていた。

「ホイミ」

 痛みに呻きながらも、意識を苛むその痛手を癒すべく、少女は呪文を唱えていた。体の内の活力を高めて傷をも癒す回復の力、ホイミ。呪文の才を持つ冒険者にとっては特に重宝するものだった。

「じょ、嬢ちゃん!無事か!?」

 不幸中の幸いか、自力で瓦礫の山からどうにか抜けだしたところで、カンダタがこちらの姿を確認して慌てて駆け寄ってきた。幾分土砂に塗れてはいたものの、傷を負った様子は微塵もない。あの状況から己の身ひとつ守ることすら手慣れいるようだ。

「これがお前さんが言ってた”超竜軍団”ってヤツか……。こりゃあカール王国も一週足らずで滅ぶわけだぜ。ここもそう長くはねぇな。」

 少女の無事を確認すると、カンダタは今近くで暴れているヒドラとは違う方向を示していた。


 ベンガーナ市街を守るべくして建てられた港や街道を面にした城塞の数々。その中で、兵士達が大砲を海から現れた怪物に向けて斉射している。だが、その怪物−別のヒドラに対して砲弾は通らず、また爆炎もその守りを破るには至らなかった。

「おおう!!急拵えとはいえ我が花火に耐えようとは、流石に伝説に謳われるだけのことはあるのォッ!!ウワーハッハッハッハ!!」
「そ、そんな悠長なこと言ってる場合じゃ……どわあああああ!?」

 人間の科学力から生みだし得る最強の武器の一つですら、竜に通じる様子がない事に一人が感銘を受けている間に、城塞に向けて突如として別の巨大な濃緑のドラゴンが体当たりを仕掛けてきた。圧倒的な巨躯の重量と突進の勢いに任せた一撃により、石壁は容易く打ち破られて、内側から呆気なく崩されていく。
 そして、次々と砦を崩したドラゴン達は、そのまま市街地に向かい始め、目に映る物を手当たり次第に破壊し始めた。


「ありゃあキースドラゴンじゃねえか……。幾らなんでも駆けだしボウズに勝てる相手じゃねえぞ……。」

 ベンガーナを襲ったドラゴン達の中でも特に体が大きく鱗の色も濃緑である一体を見て、カンダタは焦りを露わにしていた。キースドラゴン。勇者と呼ばれる類の者ですら葬り得るだけの力を持ち、ドラゴン種の中でも上位に位置する脅威であった。
 この混乱の内にあって、尚も抗おうとする者達−先のドラゴンキラーを巡って争っていた少年達もいるが、下位種のドラゴンやヒドラに手間取っているような実力で勝てる相手ではない。

「嬢ちゃんは先に逃げとけ。あいつもこの近くにいるはずだろ?」

 背負った得物−少女が持つそれよりも二回り程も大きい戦斧を手に取り、頭部全体の防護を兼ねた覆面を被りながら、カンダタは少女へとそう告げていた。

「俺か?あいつとちょいと遊んでくらあ。流石にアレを放っておいたら逃げるにもキツいだろう?」

 自分はどうするのかと問い返すと、カンダタ自身はあのキースドラゴンに挑んで時間を稼ぐつもりらしい。その腕が確かなことは彼女自身が一番良く知っていたものの、別格の竜に挑むとなると不安を隠せなかった。

「はっ、なめんなよ!あのデカブツ如きに遅れを取る俺様じゃねえ。お前さんこそ気をつけて行けよ!」

 心配するなとばかりに意気込んで見せながら、少女にもまた注意を呼び掛けていた。キースドラゴンはともかくとして、ドラゴンやヒドラを相手取るにも彼女の実力では十分に危険なのは間違いない。
 元より異世界の人間達のために戦う意思はなく、単に逃れるための戦いに過ぎない以上は、機あれば逃げるだけのことだった。

**

 緑を基調とした身軽な隠密の覆面装束を身に纏った巨漢が、その手に握った巨大な戦斧を力強く振り下ろす。それは濃緑のドラゴン−キースドラゴンが踏み出そうとする前足と激突する。巨躯を支えるだけの力と直に受けて尚も強引に踏みとどまり、そのまま跳躍して竜の顔面へと一撃を見舞う。僅かな隙を縫っての一撃を交わす術はなく、その腕力と質量の大斧を以て打ち砕けぬ物もありはしない。
 だが、キースドラゴンは寸での所で身をよじらせて直撃を避け、角を以て斧の一撃を受け止めてそのまま弾き返し、落下点目掛けて炎を吐いた。

「おわっちっち!!」

 先を読んで放たれた炎に焼かれ、カンダタは慌ててその場を後退しつつ炎を振り払った。

「ちっ……ベホイミ!」

 耐熱性に優れた外衣だけではしのげずに僅かに火傷を負ったことを感じて舌打ちしつつ、すかさず身構えながら呪文を唱える。上級の回復呪文により生命力を活性化させ、体力がみなぎると共に負った手傷がことごとく癒えていく。

「あいっかわらずおっかねえな、こいつらは!」

 並の相手であればまともに対峙すらできぬ程の威圧感と実力を有するドラゴンを前に、カンダタは忌まわしさを思い起こしていた。その強さを知る代償に痛い目を見たがために、二度と戦いたくない相手という印象は払拭できない。
 かつての強さそのままに、突如としてこの場に現れた怪物の出現に、異世界からの影響が小さからぬものであると知れる。人間のみならず、淘汰に打ち勝つ程の強力な魔物達もまた、この新たな世界で闊歩してる以上、如何なる動きがあるか予測もつかなかった。



「うわああああ!逃げろおおお!」

 商店街を守るべくして作られた大砲の弾をも受け切るだけのドラゴン達を相手に、多くの戦士達ですら戦意を失い、散り散りに逃げていく。

「どう戦えっていうんだよ、こんなのと!」

 堅牢な鱗と硬質な爪牙、そして炎の息吹に裏打ちされた圧倒的な守備力と攻撃力。それらを以て最強の生物の名を欲しいままにするドラゴン達にまともに立ち向かえる者はいなかった。 

「ラリホー」

 今にもドラゴン達の一体が人々を襲わんとしたその時、呪文を唱える少女の声が聞こえてきた。ドラゴンの周りを甘い香りと歪んだ景色が囲い、眠りへと誘っていく。

「おお、効いたぞ!助かったぜ、騎士サンよ!」
「恩に着る!」

 徐々に動きを鈍らせてやがては眠りについたドラゴンを前にして、人々は落ち着きを取り戻し、少女へと感謝の言葉を述べながら一目散に逃げていった。

「どいつもこいつも情けないったらありゃしない。普段威張り腐っときながら今この有様かい。」

 先ほどまで武器を巡って威勢ばかり良いような者達が、今ではただ逃げ回るだけの難民と化している。その無様な姿を、ナバラは容赦なくなじっていた。

「なんだい、文句でもあるのかい?」

 だが少女には、ナバラがそれを言う資格はないように思っていた。命を賭けて戦う者の視点にすら立てない者に、一体何が分かるというのか。単純に聴けば勝ち目のない戦いの中で出すべき答えを単なる無駄死にとするのが美談と言わんばかりの物言いに、明確な不快を露わにしていた。

「おばあ様!……あら、あなたは……ご無事でよかった……。」

 この状況でまた悪口を開く祖母を諫める声の主が、こちらに気づく。占い師の少女メルルもまた、辛うじてデパートの崩落で命を落とすことも免れたらしい。

「カンダタさんはどうしたのですか?まあ!あの竜の群に!?」

 突如としての竜の襲撃を受けて、皆が四散して逃げまどっている。家族と離れ離れにならずに済んだ自分達はまだ幸運な方だろうか、とメルルは思わされていた。

「心配ない……って、あの方は一体……。」

 竜の群れに単身で立ち向かったと聞いて、取り繕いようもない程に驚かされたが、少女自身には然程それを気にとめた様子はなかった。並の者では一矢報いることすら出来ぬドラゴンに対し、一人で向かう蛮勇を支える物は一体何なのか。

「……う……うう……、ここはどこ?」
「!」

 ドラゴンが眠りから覚めぬ内に逃れんとする中で、小さな少女のうめき声がメルルに届いた。

「動けない……誰か、たすけて……!」

 崩された建物の瓦礫の下敷きになっている中でも幸か不幸か命だけは取り留めたのだろう。だが、その子供は瓦礫に挟まれて動けない様子だった。

「た、大変!!」
「およし、メルル。」
「でも……」

 彼女の呼び声を聞きつけて、彼女は思わず駆け寄らんとしたが、ナバラに裾を掴まれて制止された。ドラゴンが闊歩するこの街にあって、人を助けていては今度は己が危険に晒されかねない。

「え?」

 メルルが制止を振り切り駆けつけて、その瓦礫の重みになすすべもないことに気づいたその時、不意に少女が腰に差した"破邪の剣"へと手をかけた。

「一体何を……っ!?」
「熱っ!」

 それを怪訝に思って尋ねんとした瞬間、抜剣と共に焼け付くような光に目が眩む。
 肌を焼く程の熱気がまき散らされる中で、石の塊が鈍重な音を立てて転がり落ちるのが聞こえてくる。

「瓦礫を……焼き切った!?」

 次に視界に入ってきたのは、子供を押し潰さんとしていた瓦礫が砕かれ……否、斬られている様だった。

「あの剣の力だけじゃない……あの人……」
「……手慣れておるな。」

 子供を救い出しながら、メルルはナバラと共に今の現象が如何に不可解な物であるかに戸惑いを露わにしていた。ギラの呪文を秘めた剣というだけでは、石を断つことなどできはしない。 
 力と技だけではなく、こうした堅い相手を斬る経験を積んでいなければ出来ない芸当だった。

「……!」

 不意に、メルル達の目の前に赤い鱗の竜がその首をのぞかせる。獲物を見つめるような眼光でねめつけられ、この場にいる者達の殆どは震え上がった。

「さ、さっきのヒドラ!もう追いついて……!」

 メルルもまた、恐怖のあまり思わず腰を抜かしてしまい、子供も泣くことすら出来ぬ程に怯えきっていた。
 それを見かねたのか、少女が前に踊り出て再びラリホーの呪文を唱える。

「!」

 だが、その催眠を全く受け付けぬのか、ヒドラは即座に少女へと食らいつかんと首を延ばしてきた。とっさに半身になってかわし、巻き付かんとした所を高く跳躍して後退する。

「ラリホーが、効かない!?」

 先程やり過ごしたドラゴンとは違うのか、それともあの時は幸運だっただけなのか、催眠呪文を受け付けずに五つの首で手あたり次第に街を住民ごと破壊し続けている。

「ああ、やっぱりだめだ!!逃げろ!!」
「待ってください!まだこの子が……!!」

 ラリホーの呪文が通じずして尚も、少女は破邪の剣を手にヒドラと戦っていたが、鞭の如く素早い動きによる攻撃と炎を前にまともに近づくことさえ出来ない。
 倒すことはおろか、その動きを一瞬止めることすらかなわず犠牲を増やすことしかできない。最後まで戦っていた戦士や兵士達でさえ、この場を棄てて逃げ去る他なかった。

「女一人を戦わせといて、大の男が逃げるんかい!この恥知らず!!」

 どうにもならないことはもはや明白であれ、その判断の対価とされてしまった側はたまったものではない。自分達を見捨てて逃げようとする者達に向けて、ナバラは恨めしさを露わに罵声を飛ばした。

「どうしよう、このままじゃ……!」

 立ちふさがるヒドラから逃げようにも確実に追いつかれ、戦っている少女もまた、ヒドラに満足に傷すらつけられていない。戦いが長引けば、メルル達が巻き込まれてしまうのも時間の問題だろう。

「!!」

 その切迫した自体にあって、尚も場違いなまでに平静を保っている少女が不意に勢いよく息を吸い込むと共に手を唇に添える。

「口笛?」

 それは指を用いてより大きく高い音を出す口笛の手法だった。ヒドラが近づかんとするより先に、彼女の指の間からの高い音が空高くにまで木霊した。

「!!」

 次の瞬間、何か空から雲を斬り裂くようにして少女めがけて飛来し、その足下に突き刺さった。それは細長い円錐状の形状を有する、馬上で操ることを想定された槍の一種だった。
 驚いた素振りも見せずにその槍を引き抜きつつ、頭全体を覆う鋼鉄の兜を取り出して身につける。

「あ、あ、あれは……!?」
「今度は白いドラゴンが!! うわあああああ!!」 

 ヒドラから逃げようとした者達が、空を見上げて再び恐慌状態に陥っている。先程槍が落ちてきた方向から、一匹の白く小さなドラゴンが地上目指して降下してくるのが見える。

「……!? あいつ、ヒドラに向かっていくぞ!?」
「敵じゃ、ないのか……?」

 だが、そのドラゴンが逃げゆく民達を襲うことはなかった。一度は彼ら目掛けて飛んでいたが、ある程度近づいてから急にヒドラ、更に言うなら少女に向けて方向転換していた。
 突然現れた白い竜の姿を敵と見なしてか、ヒドラはその五つの首を一斉に殺到させる。その牙が届かない高度を保ちつつ、吐き出される炎もまた次々にかわしていく。風よりも早い猛烈な速度でヒドラを翻弄し、いつしか少女の目の前へ降り立っていた。
 少女の体躯の二倍程度の高さの細長い体躯を有し、白金のような鱗に覆われた翼竜だった。

『すくらんぶるッテトコダネー、ボース♪』

 彼女の姿を確認するなり、ドラゴンの口から甲高い子供のような剽軽な声が発せられた。その人間臭い仕草も相まって、おおよそ恐れられてる者とは思えない人懐こさを与えている。

『ジャ、チャッチャトヤッチャオッカー♪』

 この非常事態に似合わぬ楽しげな口調で、ドラゴンは少女をその背中に誘うように頭を垂れた。丁寧に首に掴まり、背中の鞍へと跨る。そして手綱を引くとともに、ドラゴンは大きく跳躍して天高く舞い上がった。

「乗った……?」
「ま、まさか……あいつ、ドラゴンライダー?」

 ドラゴンライダーと呼ばれる魔に属する戦士の話は有名な話だった。ドラゴンに操られた人間とも、魔の力を以てドラゴンを調伏させた者とも、更には伝説の勇者の従者としての、脅威としての噂が後を断たなかった。
 それでも、先程までこちらに危害を加えることもなく、共に戦ってくれていた者に対しての情もあるのか、おのずとそうした恐れは消えていた。

「あの鎧、まさかそのために……」

 ナバラもまた、ドラゴンに跨って空を舞う少女の騎士然とした姿を見て、ようやくその出で立ちの理由が分かった気がした。元々騎士に向いた鎧は騎乗に用いるがために作られ、突撃の際に身を守る役目を担うものだった。彼女の場合においても単純な堅牢さのみにあらず、滑らかな表面による抵抗を抑えるなどの、飛行する際に受ける影響への対策も考慮されているのだろう。

 ドラゴンに跨ってからの彼女の戦いぶりは、まるで水を得た魚のように激変していた。先の戦いにおいても、すれ違いざまに斬りつけて、ヒドラの鱗を傷つける程度はできていた。それでも回避することに専念しなければ、反応が遅れて炎に焼かれるのが関の山だった。

「す、すごい……」
「槍一本であんな化け物をあしらってやがる……」

 だが、今はドラゴンが足となり翼となってくれているお陰でより自由な移動が可能となり、攻撃に専念することができた。隙を見せている首へとドラゴンが向かった所をその勢いのまま少女の槍で目や喉元などの急所を狙って突く。何度も通じる手ではなかったが、確実にヒドラに痛手を与えていく程にまで、純粋な武技で圧倒している様に皆が呆気に取られていく。
 それでも、致命傷には程遠く、反撃により受ける痛手も決して軽いものではなかった。各頭部の急所狙いによる牽制を脅威と見なしてか、ヒドラは積極的に食らいつこうとはせず、徐々に火炎による攻撃に切り替えてきた。まき散らされる炎による熱気で、ドラゴンはともかく、少女は確実に体力を奪われていく。

『おーけー、ボス♪』

 だが、彼女は焦った様子もなくドラゴンと目を合わせた。その意図を即座に感じ取ったのか、ドラゴンは相変わらず明るい調子で応えていた。

『まぬーさ』

 大空高く舞い上がるドラゴンの口から、呪文が唱えられる。一斉に吐き出される炎で視界から隠れた次の瞬間、七つの影が炎から現れてヒドラへと来襲した。
 炎をかわしながらヒドラの首一つ一つめがけてドラゴン達が突進していく。不意に現れた多くの敵にヒドラは驚き身構えた。間合いに入るなり弱所を的確に狙ってくる相手を前に、それが呪文で作られた幻であるとすぐには気づけず、反応が僅かに遅れる。
 仮初めの幻に怯んだ所に、ヒドラの目の前へとあの白いドラゴンが急降下しつつ現れて、その口を大きく開いて息を吸い込みつつ力を溜める。それに気づいたヒドラが炎を浴びせると同時に、ドラゴンもまた体内で練った力を一気に吐き出した。氷の息吹が球状の弾に集束されて、五頭の竜が吐き出した炎の中心へと放たれる。衝突と共にドラゴンのブレスが爆ぜて、ヒドラの炎をまとめて吹き飛ばす。
 自分達の炎を相殺してのけた敵に次の手を打たせる前に、ヒドラは一気に牙を剥いて食らいつこうとしたその時、ドラゴンの背にあるべき敵がいないことにようやく気がついた。

「!」

 直後、今度はヒドラの背中に何かが深々と突き刺さった。そこには先程までドラゴンに跨っていたはずの少女が、槍にしがみつくように身を委ねているのが見えた。
 ドラゴンが先行してヒドラへと奇襲をかける直前、マヌーサで幻影を見せてすぐに彼女はドラゴンから飛び上がり、ヒドラの心臓に狙いを定めていた。急所突きによる威嚇から始まりマヌーサの幻影による目眩ましからのドラゴンの陽動へ続き、とどめの一撃への決定的な隙を作る。強引なりにも、その順序は計算されつくしていた。

「た、倒した!?」

 絶望的な状況を作っていたモンスターが今まさに倒れようとしているのを見て、離れて見ていた者達が思わず沸き立つ。

「あ、あれでもまだ死なねえのかよ!!」
「でも、逃げていくぞ!!」

 心臓そのものは外れていたからか、血を噴き出しながらも倒れる気配はない。それでももはや戦う力は残っていないのか、少女の前から踵を返して退き始めていた。

「……ありがとう、あんたのお陰で助かったよ。」
「得体の知れないドラゴン乗りのあんたに助けられるとはな……。」

 少女もまた何とか戦いから生還したところを、先程逃げ去っていた者達に迎え入れられていた。

「フン! 真っ先に逃げおってからに、この腑抜けどもが!」
「面目ねえ……けど、一体やっつけるにもこうも命がけなんてな……」

 誰かが動かねばならない中で逃げ去った彼らに置き去りにされたナバラは怒りを露わに容赦なく罵倒していた。だが、それに頭を下げながらも、彼らは回復呪文などを以て傷ついた少女への手当てを行っていた。決して勝てない敵と戦ってくれた感謝を偽善としてでも表しているあたりは、決して軽い判断であった訳ではないようだ。彼らに守られていた人々も、中にはヒドラを撃退するだけの力やドラゴンを従えている事実におびえている者もいる様子だが、大半から受ける眼差しは好意的なものだった。
 本来は身を守るために降りかかる火の粉を払うだけに過ぎなかったが、メルル達はともかく彼らとて見捨ててしまっては、一つ大事なものを失っていたかもしれない。異世界の人間のために自らを危険に晒そうとも、不思議と後悔はなかった。

「見ろ!! あっちにも……!?」 

 助けた人々からの手厚い看護を受ける中で、不意に近くから大きな地響きが聞こえてくる。そこを振り返ると再び別のヒドラが現れていた。

「……流石のあんたでも、あんなのを二匹も相手は無茶だろう。俺たちのことは良いから先に逃げてくれ。」

 再び皆が恐怖する中で、戦士の一人が槍を構えんする少女へとそう告げてきた。ただ一人で再び戦わせてみすみす死なせたとあっては、自分達の恩人への申し訳が立たない。それが彼女自身の心に従うものであるとするならば、尚更その無謀を止めなければならなかった。

「あんたを見てると、俺たちだって負けちゃ……!?」
「!」

 彼女に代わり、殿を務めんと踏みだしたその時、目映い光と雷鳴と共に、耳をつんざくヒドラの断末魔が響きわたった。

「か、雷……!?」
「あの光は……」

 今もなお木霊してる雷鳴と強烈な閃光、そして黒焦げになったヒドラの様子から、それが雷によるものとすぐに知れた。そしてその雷を撃ちだした雷雲がいつしか空に普いている。

「何か……いるぞ……!!」

 ヒドラの背後から何者かが現れるのが見えた瞬間、五つの首が纏めて斬り飛ばされる。人々がどう足掻いても勝てなかった脅威が、無慈悲なまでの力を以て一方的に排除されている。

「あ……あ…………」
「ヒドラが、あんな呆気なく…………」
「うそ……だ、ろ……。」

 力無く倒れたヒドラの奥から、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる姿が露わになる。
 先にあったオークションで見えた小柄な少年。だが、先に纏っていた騎士の鎧を脱ぎ捨てて間に合わせの装備だけを身につけていた。そのような軽装にも関わらず、ドラゴン達の爪牙や炎で傷ついた様子は然程なかった。右手にいつしか握られていたドラゴンキラーは、今し方屠られたヒドラの血にまみれている。
 その額には、あの時王国を滅ぼした男と同じ、竜の如き紋章が光輝いていた。

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