冒険ばとん エピローグ
生の礎、破滅の影

「ホレス!!」

 ふと、無事に人攫い達を倒してのけた少年に、囚われていた少女がそう呼びかけてくるのが聞こえてきた。

「ディルジ…」

 こちらに向かう事が叶わないのを悟って、少年はすぐに彼女の下へと歩み寄って行った。
 そして、慣れた手つきで足枷の鍵を外して、その縛を丁寧に解いてやった。

「生きていたのね!よかった!私…私…!!」

 解き放たれた少女は、目に涙を溜めながら、少年の体を強く抱きしめた。
 最後に目にしたその時に、彼が死に瀕する程の深手を負って倒れた記憶が、今でも強く焼きついている。
 にもかかわらず、今彼はこうして生きている。
 安堵の余り力が抜けていく体の全てを少年に託しながら、彼女はただひたすら泣きじゃくった。

「心配を…かけた様だな…。」

 抱擁の内に在る温もりに、少年自身にも解せぬ様な懐かしさを感じられる。
 それは、記憶の彼方にある遠い日々に受けた母からの慈愛にも似て、とても暖かなものであった。
 その不思議な心地良い感触の中に、彼は暫しの間身を委ねていた。

「ごめんね、ホレス…。」

 抱きしめる腕をゆっくりと緩めながら、ディルジは少年へと申し訳なさそうな顔を向けつつそう謝っていた。
 攫われた時の小競り合いに巻き込まれて一度死に掛けたにも関わらず、怖れる事無く自分を助けに来てくれた少年の体は、樹海を行く中で出遭った数々の魔物や、飢えや渇きと戦い続ける中で些かやつれている。
 行き倒れて間もないはずの彼に、自分のために無理を強いてしまった事を、彼女にはどうにも責めずにはいられなかった。

「気にするな。それよりあんたも無事で何よりだよ。」
「………。」

 そんな思いを他所に、少年自身は然程の事とは思っていなかった。
 目的はただ一つ、ディルジを救いだして里へ送り返す。それが、彼が恩人に対してできるせめてもの餞であった。

「…悪かったな、俺が未熟なばかりに一足遅くなって。」

 自分の言葉に微かに顔色を陰らせる少女の表情から、既に更なる地獄に送り込まれてしまったであろう女子供達の事を察して、少年は初めて悔しそうな表情を浮かべた。

「うぅん、あなたがいなかったら、私も…」

 自分の力が至らなかったために、攫われてきた者達を救い出す事が出来ずに俯く少年に対し、ディルジは宥める様にそう告げていた。
 確かに皆は既にこの場から連れ去られて、もう少年に手出しはできない。
 だが、それでも自分を助けるために駆けつけてきてくれた事の感謝の気持ちは変わる事はない。

「…ともかく、里に戻ろう。」
「…そうね。ごめんね…皆。」
「……。」

 人攫い達の動きは封じたものの、もはや仲間の娘達を連れ去った者達を追う事は叶わない。
 ならば、自分だけでも帰りを待つ者達に無事な姿を見せてやるのがせめてもの慰めというものだろう。
 いつしか拾っていた、帰るべき場所に舞い戻る不思議な力が込められた道具―キメラの翼を取り出す少年の手を取りながら、ディルジは悲しそうに俯いた。
 黒い翼が軽やかに舞うと共に、二人の体は樹海を突き抜けてそのまま空へと飛び立っていった。



『ふん、所詮下界の者どもの力などこの程度のものか。』


 この場から飛び去る二筋の光を横目に、樹海に潜む何者かが、その姿を現していた。


『あんな小僧一人に好い様にされるとは…脆いものだな。…これでは数が揃わないか。全く、所詮は欲に塗れただけのつまらない存在だったという事か。』


 倒れ伏した人攫いの男達を、禍々しさを秘めた青光を宿す双眸で見下ろしながら、彼は呆れた様子でそう呟いていた。


『俺も、動かざるを得なくなるという事か…。』


 樹海のそれよりも更に深みを宿した緑のローブに身を包み、フードを目深に被ったその姿は、身も魂も魔の者へと売り渡した魔道士のものであった。
 神に仇なす大魔の下で、その青年は数多の命を受けてそれを忠実にこなしてきた。だからこそ、眼前にある失策は決して許せるものではなかった。
 その責は自分が必ず負う。闇に身をやつしながらも、その決意だけは生来の真っ直ぐな気質の面影を残しているかの様であった。




 それから、三日の時が過ぎた。

「もう行っちゃうの?」

 森に巣食う悪党達の手によって脅かされ続けていた里に訪れた久方振りの平穏。
 夜明け前の微かに冷たく澄んだ空気の下で、ディルジは心残りな心境を露わにそう尋ねていた。

「…ああ。俺にはまだやりたい事が山とあるからな。」
「そう…よね。」

 それに対して、銀の髪をもつ少年は真っ直ぐに目を向けながら出発の意を示していた。
 それでも、表情こそ変えずとも彼女の辛い思いを微かに感じ取れたのか、その口調には微かな惑いがある様な気がした。
 そしてディルジもまた、窮地に陥った所で救いの手を差し伸べてくれた少年に対して特別な想いを抱かないはずはなかった。

「でも、凄いわよね。」
「?」

 ふと、別れの時を迎える中で、ディルジが不意に思い出した様に話を切り出した。
 唐突にしてあまりに断片的なそれの意味を理解できず、少年は首を傾げていた。


「この前目を覚ましたばかりなのに、たった一人であんなところまで辿り着いて、仕舞いにはあいつらにすんなり勝っちゃうなんて。ちょっと生意気で可愛い男の子だと思ってたのに、お姉さん見直しちゃった。」


 周辺の地理に明るい者でさえ迷い込んでしまう程の樹海の道。
 それを、この見知らぬ場へ投げ出されて間もないはずの少年が無事に踏破してしまった。
 その事実を思い返して、ディルジは未だ幼さを残す少年が秘めた、計り知れないまでの力強さを感じていた。


「…運が良かっただけの話だ。」
「あら?照れてるの?もぉ、やっぱり可愛いわねぇ。」
「何故そうなる…。」


 暫しの間黙した後に無感情に否定する少年に一体何の愛嬌を感じたのか、ディルジは愛でる様に彼の頭を撫で上げながら、満面の笑みを浮かべていた。
 一方の少年は、何も感ずる所がないのか、ただただ人形の様にされるがままにされていた。
 それは、家族を愛する姉と一人立ちに向けて背伸びを続ける弟の触れ合いにも似ていた。

「短い間だったけど、本当に楽しかったわ。」
「それは…何よりだな。」

 全てが終わったその後のひとときの休息に少年が身を委ねる側で、ディルジもまた安らぎを共にしていた。
 多くを人攫い達に奪い去られた日々の中でここを訪れた少年の存在は、忘れようとしていた温かな気持ちを再び思い出させてくれた。
 それが例え、すぐにこの里を去らねばならない事が分かっていたとしても…。


「ハイ、これ。」


 抱きしめていた腕をゆっくりと少年から離しながら、ディルジは一つの大きな何かを手渡した。

「これは…」

 それは、たくさんのパンが入った厚手の袋であった。その入れ口を通じて、香ばしい匂いが風に乗って鼻腔にまで届いてくる。

「あなたがいっぱしの冒険者だって、お腹が空いたらやってられないでしょ?でも、これだけ持っていけばきっと大丈夫よ。」
「…すまないな。」

 如何に強い望みを以ってしても、いつか来る別れを避ける事は叶わない。
 ならばせめて、別れの悲しみに精一杯の愛を添えて笑って見送る事で、心の中に思い出を留め置く。
 これが今のディルジにできる全てであった。


「世話になった。随分と達者でな。」
「うん…。ホレスも元気でね…。」


 金と銀、その髪の色の相違にも似て、元より一度すれ違うだけで決して交わる事のないそれぞれの道。
 愛し合うに至らずも、その一瞬の邂逅こそが少女の心を満たしてくれた。


「あなたなら、きっと…」


 去り行く少年―ホレスの背中を見つめながら、ディルジは最後に何を期待したのか、祈る様な調子でそう呟いていた。


 全てを失った中でも決して諦める事なく戦い続け、自らの道を見い出し、時には切り開く。
 光さす場に生まれた影の如き突然の苦境を更に覆して好機となす。

 そのただひたすらに”生”に飢えるかの様な強い心こそ、伝説を求めて永き旅路を往く冒険者たるその姿を象徴しているかの様であった。