第二章 最初の出会い
第十話
 

 魔物同士が互いの力を競う地下の闘技場。そこで行われていた勝負が決して、勝者への喝采が一時響き渡る。その余韻が消える頃になると、今度はその試合を見ての感ずる所や次の勝負へ向けての期待を語らう声が、半球状の天井を飛び交うようにして静かにざわめき始める。

「…やはりここにいたか。」

 闘技場に設けられた座席に座ってこの興行に浸っていた小さな少女へと、ホレスはそう呼びかけていた。
「む…。」
 青年の声を聞き、彼女―ムーは小さく唸りを上げて肩を竦めていた。後ろ手には、中身を失って萎んだ袋が隠されている。咎めるように見下ろすホレスの顔を、少々気まずそうに見返しながらも、その顔に湛えられている表情は変わることはなかった。
「おお、お主はホレスではないか。」
「あんたも何をやっているんだ。」
 彼女の隣に座っていた別の男が呼びかける声を耳にすると、ホレスはムーに向けていた以上に呆れたような視線をその声の主へと向けていた。老人のように低くも張りがあって、微かに上の者たる気迫を帯びつつも、どこか屈託がなくて威厳に欠ける声は、ここに向かう途中の喧騒の中からでも容易に聞き分けることができた。
「なーに、せっかくまた庶民となれたのじゃ。こうして楽しむことまで縛ることはなかろうて。」
 本来あるべき玉座で見せた姿とは程遠く、この遊戯の場に違わぬ程に享楽染みた雰囲気を振りまいている。初めからこの闘技場に入り浸る狙いがあって、レフィルへと王位を譲渡したことは一目見て明らかだった。楽しみたい時に楽しまんとするお調子者の節があるこの王であれば或いは当然の結論にも近しく、然程驚きは感じられなかったが。
「それよりお主も一つ賭けぬか?今度の戦いは何と、箱同士の名勝負じゃ!!」
「………。」
 そして、今も尚勝負に興じようとしている。箱の絵柄が描かれたチケットを鼻先へと突き出してくる王を前に、ホレスは完全に閉口していた。



 ロマリア城の内側の中庭に、真昼の陽光が直に照りつける。庭の空間は広く取られており、その枠組みとなる城壁は古くからその位置にあることは、魔の脅威からも古の戦の禍根からも遠く離れていたがゆえの平和の賜物とも言えるものだった。

「えっと……」

 その美しい庭園の中で出会った男の恭しい仕草を前に、レフィルは王たる態度を取ることすらも忘れて、怖気づいたかのように一歩後ろに下がっていた。
 会って早々にまるで傍若無人にも思える程に馴れ馴れしい物言いをしたと思えば、今度は大袈裟なまでに儀礼染みた振舞いをしてみせている。二つの顔の差異の大きさに、レフィルはますますその意図が読めずにいた。
「ははっ、やっぱり慣れてないみたいだな。」
「……。」
 言葉が続かぬのを見るやいなや、男―サイアスはまた元の口調に立ち返りつつ、可笑しそうに笑った。今のレフィルの外見こそは確かに立派な女王であっても、相変わらず挙動の一つ一つがぎこちなさを帯びている。そんな釣り合いの無さは、見る者が見れば実に滑稽にも思えるものであったことだろう。
「俺も一度勧められたクチでね。面倒そうだったんで謹んで辞退したんだけどよ。」
「あなたも…?」
 この譲位が今に限った話でないことは、既に何度か聞いていた。目の前の青年がそれに関わることになったのは意外ではあったが、逆に言えば彼もまたそれだけ王に気に入られたということだろうか。
 よく磨かれた新品の鎧や天を指すようにセットされている黒髪は、単に目立ちたいような虚栄心にも見える。だが、そんな下らないものを感じさせない何かを、このサイアスの存在そのものから見えるような気がしてならなかった。

「で、君があのオルテガの娘ってか。金の冠奪還の噂は聞いてるぜ。」

 既にロマリア国内では、レフィルがかの勇者オルテガの娘であり、更には国宝まで取り戻した話は広く知れ渡っていた。その噂の源である当人に会いまみえるのが最初からの目的であったらしい。
「…でも、あれは……」
「ああ、分かってるよ。」
「え?」
 自分の手柄などではない。そう言いかけて止めたところで、サイアスが言い放った意外な一言に、レフィルは思わず動きを止めていた。
「他の奴らは信じ切ってるけど、カンダタ盗賊団なんざそう簡単に相手にできるもんじゃねえ。一体どうやって取り返したんだ?」
「……。」
 名のある義賊集団であるカンダタ盗賊団を相手にたった一人の仲間と共に戦い勝利し、更には今の世界の平穏の基礎を築き上げた勇者オルテガの娘と聞いてどのような逸材かと思えば、女王の衣装の下は単に気弱な少女がいるだけだった。既にそこまで見透かしているかのようなサイアスの遠慮のない言葉を前に、レフィルは何も言い返すことができなかった。

「ったく、西国の連中は甘ちゃんばっかだからなぁ。」

 大方、義に厚いカンダタが情を掛けただけのことなのだろう。そもそもホレス程の冒険者の力でも叶わない相手に、旅の経験浅いレフィルが敵う道理などなかった。
「サイアス、さん…?」
 だが、そこまで悟りながらも、サイアスの言からはレフィルへの失望のような暗いものは一切感じられなかった。
「だけどよ、全部が全部そんなんじゃねえ。アッサラームは知ってるよな?」
「……はい。」
 そんなことを垣間見ているのを余所に、サイアスは更に話を進めていた。大陸有数の交易都市―アッサラーム。旅立つ前に蓄えていた最低限の知識から、その地名はすぐに分かった。カザーブのような小さな村までは訪れるまで知る由もなかったが、アリアハンにまでその名を轟かせる大きな街の話ならば、学ぶ前より耳にしていた。
「油断してるとお前さんみたいな女の子なんざカンタンに喰われちまうぜ。一人で出歩いたりしねえことだな。」
「食べられるって…えぇっ!?」
 脅し文句のように告げられた物騒な言葉を聞いて、レフィルは素っ頓狂な声を上げていた。が…
「て、おいおい…本当に知らねえのか。まぁ俺には関係ねえけどな…。」
「!?!」
 どうやら言葉の意図を履き違えているらしく、有りもしないはずのものに無用に囚われて狼狽しているだけのことだった。そんな彼女を見て、サイアスは呆れたように嘆息していた。
「…ん?あっちから何かくるな。」
「あれは……」
 ふと、兵士達が慌ただしく動く音が、二人の会話に割り込んでくる。それに気を引かれて向き直った先は、ロマリアの城門だった。

「は…離さんかぁ〜この無礼者がぁ〜。」

 直後、そこから何ともふざけた響きの声が聞こえてきた。それは、レフィルに城を押し付けて行方不明になったはずのロマリア元王の声だった。そんなやる気のない声が尾を引くと共に、誰かが城門の下からこちらへと向かってくる。
「…えっ!?」
 旅装束に身を包んだ白銀の髪の青年―ホレスが、やたら立派な衣装を纏った壮年の男―元王の襟首を掴んで引きずり回している。それを見て、レフィルは驚きのあまり開いた口元を抑えていた。
「…ふん、賭けを持ちかけたのはあんたの方だ。大人しく言うことを聞いてもらおうか。」
「うひぃいそんな殺生な〜、ワシはもう王なんぞやりたくないんじゃ〜。」
「本音が出たな……。が、あんたは庶民なんだろう?だったら、俺に命令できる立場じゃあない。」
 連れ戻されるのを嫌がってじたばたともがく元王を逃がすことなくしっかりと捕まえつつ、ホレスは有無を言わさずにただ前に進み続けていた。
 懇願にも似た元王声は戯れにも似ているものの、この王のどこかで王位という束縛を嫌う気持ちがあるのかもしれない。だが、皮肉にも庶民となった今となっては、尽くすべき礼節も何もあったものではない。件の箱同士の賭けに負けてしまった今、王にはこの城に連れ戻される以外の選択肢はなかった。
「もう一回やれば勝てたかもしれないのに。」
「……ったく、お前も人の金を全部すりやがって…。いつの間に取ったんだよ…。」
 傍らで見上げる少女―ムーが口惜しそうにぽつりと呟くのを聞いて、ホレスは苛立たしささえ感じさせるような視線を返した。その右手には、彼女がいつの間にやら持っていた袋が握られていた。路銀が入っていたはずの袋は今は既に空になっており、見るも無残に萎んでいた。
「あなたのものは私のもの。」
「……お前な。」
 そして、唐突に厚かましいことを言い始めたムーに、ホレスは更に呆れを覚えていた。まるで目上の者がその威を駆って、思い通りになさんがするような振る舞いは義賊カンダタの流れを汲む者のそれではなく、その外見も相まってまるで粋がる子供のようでもあった。
「…その代わり、私のものもあなたのもの。それなら文句はない?」
「……何だと?」
 …が、その直後に逆を告げたことの意味が察し切れず、ホレスは訝しげにムーの双眸を見返した。
 そうしている間に、いつしか周りには兵士達が複雑な面持ちで互いに目を見合わせながら、彼らの周りを囲んでいた。

「ホ…ホレスさん……!?」

 行方不明になっていた王を探し出したは良いものの、またとんでもない無茶をしたホレスを前に、レフィルは思わず目を見開いた。
「おー…有名人のご登場だぜ。アレはアレですげぇな…。ある意味尊敬するぜ…オイ。」
 サイアスもまた、流石に驚きを隠せずにそう呟いていた。このロマリアの騎士の厳戒態勢を単騎で突破しただけのことはあるのか、並外れた度胸が備わっているのは間違いない。
「お前さんもあいつと旅してたんだよな。」
「え、ええ……。」 
「随分と心強ぇ仲間ができたじゃねえか、羨ましいぜ。」
「………。」
 金の冠の奪還の折に、確かにレフィルはホレスと共に旅を続けていた。だが、彼はサイアスが言うような仲間などではなく、あくまでも己の目的のために突き進んでいたに過ぎない。それでも、途中幾度も身を案じられ、時には守られて、最後には自分の代わりに戦ってさえくれた。ホレスの考えるところが未だ分からずに、レフィルは複雑な思いを胸に、ただ口を噤んでいた。

「俺なんかなぁ…と、どこで聞き耳立ててるか分かりゃしねえ…。」

 ふと、仲間と言う単語から何を思ったか、サイアスはそう一人ごちていた。
「…そ…そんなに……?」
 冒険者としての力量は一見するだけで既に自分など足元にも及ばぬ程のものであると知ることができたが、仲間には恵まれていないらしい。
 聞き耳を立てられる程の、まさに気を置けない間柄とは程遠い、互いを信じ切れぬ殺伐とした関係とさえ思わせるサイアスの言い振りに、レフィルは思わず心配までしていた。優れた力と名声を手にしたとしても、彼には彼なりの苦労があるのだろう。
「じゃあな、レフィルちゃん。次会えるときを楽しみにしてるぜ。」
 強力なライバル足りえる勇者の娘との最初の邂逅、それもここで気が済んだのかサイアスはそれだけ言い残して中庭を去って行った。
「あの人は、一体……?」
 勇者オルテガの娘であるだけで特に大した実力を持たぬことすら看破した上で尚も、彼はこちらを意識している素振りを見せている。金の冠の窃盗事件を解決した当人ではなく、かつオルテガの面影すらも残らない力しか持たぬ自分に、一体何を期待しているのか。

「あいつは…やはりここに…。」

 いつしか、ホレスは既に傍らにまで来ていた。去り行くサイアスを見届けながら、ムーと共にレフィルの近くへと立つ。
「知っているのですか?」
「ああ。既に随分と名が通っているな。さっきも酒場で居合わせたが…あいつがあのサイアスに間違いないだろう。」
「そうだったんだ…。」
 サイアス―その名は冒険者であれば自ずと耳にする名でもあった。やはりその軽薄な性格もまたよく知られてはいたが、他を圧倒する実力からか最強の使い手と名高く、凶暴な魔物が蔓延る世の中においては人々の語り草ともなっていた。
「ところで、ホレスさん…………だ…大丈夫なんですか…?…これは……。」
 既に冒険者の間で常識となりつつあることも、この世界に踏み入ったばかりのレフィルには知る由もない。それに納得しつつも、今度は彼自身が置かれている状況を見て、レフィルは怯えたように弱々しくそう告げていた。
 ホレスの周りを数人の兵士達が槍を手に囲んでおり、既に逃げ場はない。だが、彼らの表情にはどこか釈然としないものがあり、手を出すことまでは憚られているかのようでもあった。相手は無実の罪とはいえ、一度ロマリア騎士団を相手に思わぬ被害をもたらした男であるのもさることながら、元王の戯れるような物言いを前にどうしたものか分からなくなるのも当然だった。

「文句ならこのボンクラ王にでも言ってくれ。俺は賭けに勝った。あんたらがあれこれ言う筋合いはない。」

 浮足立ってすらいる兵士達にそう告げながら、ホレスは右手で掴んでいた王の襟首を離して前に押し出した。
「やれやれ…こやつの申す通りじゃ。皆、下がって良いぞ。」
「「は…はぁ………。」」
 ゆっくりと立ち上がりながら王が判断に困っている兵士達へと命じると、彼らはやはりすっきりしない面持ちで、持ち場へ戻って行った。
「全く、こんな無茶しおるから犯人と間違われるんじゃ。」
 如何に約束を守らせるためとはいえ、力ずくで城に連れ戻すなど王族に対する態度でない。これ程の不敬を躊躇いもなく行えるからこそ、ロマリアの騎士達もカンダタ盗賊団の一員と信じて疑わなかったのだろう。
「ふん…元はと言えば全部あんたが撒いた種じゃないか。」
 だが、ホレスはそのようなことなど気にしていないらしく、逆に王の不始末に呆れたようにそう呟いていた。確かに、先の盗賊団の件も今の賭けも、そもそも王の遊び心が引き起こした災禍に過ぎない。
「ハッハッハ。まぁ…それはさておいてじゃ。お主、これからどうするんじゃ?」
 譲位したとはいえ、王族に対して全く物怖じせずに言い返した姿勢に面白いものを感じつつ、王はホレスへとそう尋ねた。
「あんたには関係のないことだが…イシスに向かおうと思う。」
「ふむ…イシスか。彼の地もまた、多くの旅人が行き交う地であったな。」
 ロマリア南の内海を隔てた先の広大な砂漠の中に存在するオアシスの王国―イシス。そこには過酷な砂漠越えの苦労があるにも関わらず、多くの冒険者を引き付ける大きな魅力が二つあった。一つは古の時よりその姿を留めている砂漠の王墓―ピラミッド。初代王ファラオが眠るこの墓に作られた迷宮の中に、数多くの宝物が納められており、冒険者垂涎の場として知られていた。
「まして、勇者となれば女王も放っておくはずもあるまい。或いはかの魔法の鍵も、授かることができるやもしれぬぞ。」
「魔法の鍵…か。」
 もう一つは、絶世の美女として知られるイシスの女王であった。その美しさたるや、苦しい旅路を抜けてきた冒険者達の心をオアシスのように潤してくれる程のものと噂されていた。また、女王と出会えた者には必ず何かしらの幸運が訪れるという話もよく聞いていた。
 その奇跡染みた話の元となっていたのが、ピラミッドに祀られている神器―魔法の鍵であった。結界によって閉ざされた扉の封を解き、更なる道を切り開く。世界を旅するに、それ以上の助けとなる品は思い浮かばない。
「ワシがそなたに望むこと、もう分かるじゃろう。無理強いはできぬが、他に頼れる者もおらぬからの。一つ頼まれてはくれんか?」
「レフィルと共に行け、と?」
 ここまで話されれば、ホレスにも王が欲するところはおのずと知ることができた。国を上げてレフィルを支援すると宣言した以上何かしらの助けになろうとしても、旅慣れない兵士をつけた所で意味はない。それならばいっそのこと、レフィル最初の勇者としての旅を共にしたホレスが望まれる可能性は否めなかった。
「お主、レフィルに何かを見たのであろう。それならば、お主とてこの子のことは気になっておるはずじゃろうて。」
「……!」
 何より、一部始終を見てきた王には既にホレスの心の中で燻っている思いを知ることなど、造作もなかった。最初にレフィルを救いだしたことも、身を呈してまでレフィルの代わりに奪還の任をこなしたことも。それは決して、あらかじめ預かっていた宝の箱のためだけではなかった。図星を突かれたのか、ホレスは微かに表情を険しく歪めていた。
 他者に心中を語られることは決して気持ちのいいものではない。その不快感を感じる一方で、ホレスは自分でもそこまで意識していたことに気付かなかったような気がした。
「第一、お主にとっても悪い話ではないはずじゃぞ?何しろ、勇者と共に行ける機会なぞそうあるものではないのだからな。宝を求める者として、案外これ以上良い道はないかも知れぬぞ?」
「………。」
 その道に誘うような王の言葉を前に、ホレスは何も答えることはできなかった。
 父には遠く及ばずともそれでもホレスから見れば十分な力、そしてアリアハンの勇者という仮初の名声。その恩恵を受けられれば、確かにそれなりに動きやすくはなる。だが、それに手を伸ばした結果は、一体どうなるのだろうか。
「幸い、旅立ちの日まではまだ長い。よく考えておくのじゃな、ハッハッハッハ。」
 沈黙したホレスの葛藤を見て苦笑してその肩をぽんと叩きつつ、王は励ますようにそう告げるなり、満足そうに笑いながらその場を去って行った。
「ホレスさん……あの……。」
 その話を傍で聞いていたレフィルもまた、王の唐突な提案を前に困惑を隠せなかった。仲間を率先して探すことを苦手とするレフィルにとって、ホレスとの出会いは行幸とも言えるものだった。しかし、そもそも自分のせいで彼には数えきれない程の迷惑を掛けてきた。それ以上甘えてしまって、果たしていいのだろうか。
「……悪いが、一人にさせてくれ。」
「…………。」
 ホレスもまた、まだ多くを気負っているらしく、どうすればいいか分からずにいる様子だった。今はまだ、全てを決めるだけの結論が得られない。迷いを露に王城を後にするホレスに対して、レフィルは何も言うことができなかった。
「何が正解?」
 このやりとりを黙って見守っていたムーは、首を傾げながら自問するように小さく呟いていた。



 譲位から一週間の時が経ち、レフィルは王位を返還して再び旅立ちの時を迎えた。王位にある間は政務も思いの外満足の行く結果が出て、退位を惜しむ声も出る程に国民の評判もかなり良好だった。
 それでも、未だ使命を帯びているからにはこれ以上この国に留まっているわけにもいかない。

「冷たい風…」

 避けられない旅路の再開。その先の厳しさを表すかのように、ロマリア城から出たときに浴びた朝の空気は冷たいものだった。まだ朝早いからか未だ静かな城下を、レフィルとムーは静かに歩んでいた。
「ホレスさん……。」
 だが、旅立ちを前にして、レフィルはやりようのない虚しさを覚えていた。大きな助けとなった彼に何一つ報いることができぬまま、この時を迎えることになってしまった。
―やっぱり…あなたのおかげだったんだね……。
 旅立った時に失っていたと思っていた暖かなもの。ただ一人で旅を続ける中では決して感じ得ないものを、彼との出会いを通じて感じることができた。それがあったからこそ、この旅路だけではなく、王位についていた七日間さえも、満ち足りたものとして受け止められた。
「ムー、行こう……。」
 ともあれ、今は前に進むより他はない。待っていてくれているのか、道の先で振り返っているムーへとそう告げながら、レフィルは再び歩み始めた。寂しさを抑えられないのか、その声は少々沈んでいた。

「!」

 城下町と外を隔てる門にまで達したその時、ムーは突然何かに気づいたように顔を上げて立ち止った。
「どうしたの?ムー?」
 固まったようにして急に動きを止めたムーを見て、レフィルは不思議に思いそう尋ねつつ、自身も前に目を向けた。
「あれは……」
 開け放たれた門の隅で、黒い外套が凪の微風に小さく揺れている……。そして、門を前にして進むこともなく、ただ誰かを待ち続けている。

「今日が、出発だったな。」

 その近くにまで寄ると、彼は振りかえりつつ二人へとそう語りかけた。
「ホレスさん……。」
 果たしてそこで待っていたのは、自分の行く道を支えてくれた冒険者―ホレスであった。
「……王の頼みなんか知ったこっちゃない。だが、お前の進む道を俺も見たくなった。」
 レフィルと共に旅することそのものは、確かにロマリア王の計らいと言えるものだった。だが、それ以上に、ホレス自身も彼女と触れ合ってきたことで、多くを感じてきた。勇者という理不尽な運命に突然囚われて苦しみながらも、持って生まれた資質で今も尚抗い続けている―いや、逃れ続けていると言ってもいいだろうか。
 所詮は他人事であり関わりのない瑣末事でしかないはずだったが、それでも最初に出会ったそのときから、何故か放っておけなくなっていた。
「どのみち、今のままじゃ俺自身の道さえも切り開けないことだしな。お前達が嫌でなければ、俺も共に行きたい。…良いか?」
「!!」
 この際、王が言っているような勇者たる者の恩寵などどうでもいい。まして、急ぐような旅をしているわけでもないため、己が赴くままに進むのも悪くない。ホレスは己の望むところを具体的に告げると、レフィルは驚いたように目を大きく見開いた。
「………。」
 その様子を、ホレスは黙って見守っていた。レフィルが気負っているところにつまらぬ申し出をすること自体が恩着せがましいことだったのかもしれない。

「い…嫌なんてことは…!わたしだって…!」

 だが、その心配は杞憂に終わった。レフィルもまた、躊躇いなく幾度も窮地を救ってくれたホレスの存在を欲していた。これまで言い出せずにいた思いが堰を切ったように溢れ返り、言葉が上手く出ない。
「……そうか。…っ!?」
 その断片の一言を聞けば、ホレスにはレフィルが望む答えをすぐに知ることができた。それで安心した瞬間、不意に下の方から物凄い力で引っ張られてバランスを崩しそうになり、ホレスは思わず絶句した。

「ムー…お前……」

 引かれた袖の方を見やると、そこには赤い髪の少女―ムーがその小さな手でしっかりとホレスの腕を取りながら、緑の瞳でじっと見上げていた。
「二人よりも三人の方が面白い。」
 次いで彼女は、少女とは思えぬ力でしきりに袖を引っ張りながらぽつりとそう呟いた。表情に表わさずとも顔には僅かに赤みが差し、無邪気な笑顔のようなものが一瞬垣間見られたような気がした。
 まるで誘うかのような言葉と挙動から、彼女の意もおのずと察することができた。これ程までに歓迎されるとは思っていなかっただけに、ホレスは安心さえしていた。

「ふふ…行きましょう。」

 そんな二人の様子を見て思わず小さく笑声を零しながら、レフィルは彼らへとそう告げた。
「……そんな顔も、できたんだな。」
 先を歩くレフィルの背を見つめ、ムーに手を引かれながら、ホレスは二人に聞こえぬ程に小さな声でそう呟いた。今の瞬間、レフィルの顔は先の旅で見せたどれよりも明るい笑顔だった。不安すらも忘れさせる喜びを、友としての絆から感じることができたのだろうか。そして、そのような笑顔がずっと続けばいいと、ホレスは心のどこかで願っていた。それが、記憶の片隅にある影を追っていることも、今は関係のないことだった。

 東の海洋より浮かぶロマリアの曙光が、三人の旅立ちの時を告げる。
 広大な世界に隔てられた中で稀有なる出会いを果たした三人の道は、まだ始まったばかりだった。