序章 三
失われし希望

 平穏の内に微かに色づく小さな綻びの果てに見える歪み。
 それは次第に広がり続け、やがては世界を破滅の渦へと呑み込む大いなる流れとなってその姿を現わす事となる。

 既に忘れ去られるまでに遠い昔、人の子の世界は力ある一つの国によって治められていた。
 寄り集う数多の国々を則を以ってまとめ、自らはその環の中心に立つ盟主となり、定められし理の代行者となった。
 各々が果たすべき役割を与えて、秩序を乱す存在をことごとく浄化していく。
 そうしてかの国は、波一つ立てる事なき水鏡の如き平和を支え続けてきた。

 だが、自らが生み出した恵みの内で育まれた者達の力によって、その静穏は呆気なく崩れ去った。
 それまで共に在ったはずの民達は突如として袂を分かち、道を阻むとあれば己を守らんがために武器を交え始める。
 その日を境に巻き起こされたその騒乱は、もはやかの国の手に負えるものではなくなっていた。


 この大いなる戦いが伝説として語り継がれる様になった頃、人々は血塗られた道を行く事の愚を長き時を経てようやく学びえて、各々に与えられた一片の大地の中でそれぞれの道を歩み続けていた。
 遥かなる時は何もかもをその懐に受け入れて、この世を再び静寂に帰したかに見えた。
 だが、諍いは根強く続き、引き裂かれたそれぞれが再び一つに戻る事はなかった。

 無垢なる真の平和であった古き時代に還る事も叶わず、ただ戦の傷跡により隔てられた大地。
 軋みを上げ続ける世界を見守る神と呼ばれし者も、古の戦によって傷つき、もはや滅びを止める程の力は残されていない。
 全てを抱きとめる器となる者達を失った今、世界が混沌の内に帰す時は、そう遠くなかった。


 今より時を遡る事二十年。
 人の子らが未だ古に別たれたまま、静かに暮らしていたある日の事であった。


 弱き者を生かさぬ、人の子の届かぬ魔境―ネクロゴンド。
 その最奥に在る魔殿の主―魔王バラモスが、この世界に覇を唱えんと身を乗り出した。
 それに呼応して立ち上がった者達の手によって、備え無き幾つもの集落や王国が滅ぼされた。
 あたかもこの機を待っていたかの様に力を蓄えてきた魔の者達を前に、人の子らはなすすべもなく蹂躙されていった。

 伝説にのみ在るはずの魔王の名は、今や無視できぬ脅威の元凶として、恐怖を与え続けていく。
 だが、もう一つ、この世界を大きく変えうる存在があった。

 人知れず動き出した魔王の意に応える様に次々と人を脅かしていく魔物と呼ばれる者達。
 彼らがかつて一つであった世界を治めていた一つの大国―アリアハン王国をもついに呑み込まんとした時の事だった。
 怒涛の如く押し寄せる怪物達にただ一人で立ち向かい、死闘の果てについにこれを残らず殲滅して見せた強き者。
 か弱き人の子の範疇を出ないはずのその身一つで、一つの文明を破滅させる程の流れを断ち切ったその姿に、誰もが目を見張る事となった。そして…


―彼こそが、我々の希望だ。


 滅び逝こうとしていた自分達を救った男に対して、誰からともなくそう感じる事となる。
 自分達にはない絶対的な力を以って、絶望を招く魔物達をことごとく薙ぎ払ってくれる。
 人智を超えた御業を見せたその男に、人は光を見い出した。


 これが、後に世界にその名を轟かせた英雄―アリアハンの勇者・オルテガの誕生の瞬間であった。


 アリアハン王国を救った彼の武勇は、世界の人々の知るところとなり、皆がその存在に希望を抱き始めていく。
 やがて世界が勇者を欲する事となったそのとき、オルテガは祖国を旅立ち、魔物の征伐へと乗り出した。
 魔王の影が忍び寄ると共に現れた、世界を喰らい尽くそうとする数多くの怪物を倒し続けて武勲を重ねるその様は、かの国の希望と呼ばれた所以を示し、皆にその名を認めさせる事となる。

 救世の英雄となったオルテガを讃える者、憧れる者、或いはその武勇を羨望する者、嫉妬する者。
 湧き上がるものは異なれど、彼の存在は多くの者達に勇気を分け与え、静けさの内より崩れ去ろうとしていた人の世を大きく動かした。
 この十余年もの間、人々はオルテガと共に戦い、魔物により飲み込まれようとしていた世界を取り戻し始めた。
 そして、過去に別離したはずの人の子らは、オルテガの名の下にいつしか再び一つとなろうとしていた。


 だが、偉業を積み重ねてきた英雄の訃報は突如として訪れた。


 長い戦いを続けて尚も、元凶である魔王バラモスがある限り、終わりは見えない。
 全ての禍根を絶つべく、オルテガは魔境ネクロゴンドへと足を踏み入れた。
 しかし、その入り口である死の火山で、魔王の手の者に行く手を阻まれた。


 そして、ついにオルテガはネクロゴンドより帰還する事はなかった。
 戦いの果てに火口へと身を投げ出されて、志半ばで炎へと帰す。
 その壮絶なる最期を看取る者はおらず、ただ救世主の訃音を奏でる鐘の音だけが、アリアハン王国に響き渡った。



「オルテガは…死んだのか…。」




 数多くの魔物と戦い、人々の希望と言う名の礎を築き上げてきた英雄はもう帰ってこない。
 色濃く現れようとしていた魔王の影を打ち払う希望の光は失われた。
 絶望の如き宵闇に覆われた王城の玉座の間にて勇者の死の報せを受けて、王は酷く落胆した様子を隠せずにいた。

「オルテガ殿…」
「これから、どうなってしまうんだ…」

 オルテガの働きにより、魔物によって蝕まれていた世界の多くに秩序がもたらされた。
 だが、英雄と呼ぶに相応しい強者を―皆の希望を支えられる者を失った今、世界は再び元の混沌へと流転していく事だろう。これでも尚、人々は希望を抱けるだろうか。

「エリアよ…すまないな。」
「王様、お心遣い…ありがとうございます。ですが…私も覚悟は、できておりました……。」

 失意の内に項垂れる王の謝意の言葉に、側に立つ黒髪の女性―オルテガの妻たる女性は、表情を嘆きに歪める事なく毅然とした面持ちで返礼していた。
 それでも実際には、オルテガ亡き後に残された家族の悲しみは、この場にいる誰もが抱く絶望よりも深いものである事だろう。
 それを物語るかの様に、その声に抑え切れないばかりの震えが起こっているのが何処となく感じられる。

「父さん…父さんは、もう……」

 その傍らに佇む小さな子供が虚しくそう呟く声が、哀悼の静寂に小さくも悲痛に響き渡った。
 魔王討伐の旅に賭ける救世の英雄の真なる願いは、年老いた父に対する最後の親孝行と妻への愛。そして、子供が歩む未来への道を切り開く事であったに違いない。

「どうして……」

 しかし、最後に彼らに訪れたのは、思いを伝える事も叶わぬままに家族を失った悲しみだけであった。
 優しかった父に再び会う事はもはや叶わない。
 涙が何度も零れ落ちて、紅い絨毯を微かに濡らしていた。


「あれは…オルテガ殿の……?」
「!」


 その時、誰かが涙する子供に注視しながら言葉を零すのを聞き、皆の注意がそちらに向けられた。

「そういえば…オルテガ様には子供が…」
「何だって…?あの…子が…??」

 宵闇の片隅で佇む、闇の如く深い紫の瞳と母と同じ黒髪をもつ子供の姿を見て、悲嘆に暮れて沈黙していたはずの人々が不意にざわめき始めた。

「そうか…!かのオルテガ殿の御子であれば…或いは!!」
「ああ…我らの希望はまだ失われてはいないぞ!!」

 この世界の希望であった勇者オルテガはネクロゴンドの地にて確かに失われてしまった。
 だが、彼は死に逝く前にただ一人の忘れ形見を残していった。
 その彼の子が志を継ぎ、新たなる希望となるであろう。


「――っ!!」


 その時、不意にオルテガの子は、母の後ろに下がりながらその手をぎゅっと握り締めた。
 隠れる様に振る舞いながら、その紫の瞳でざわめく者達を見返してくる。


「………い。」


 そして、その唇を微かに震わせて、一言何かを呟いていた。
 この時発せられた言葉の断片に込められた明確な意志の真意を知りえる者は、誰一人としていなかった。


「……。」


 皆が新たな希望の到来の時を信じて歓びの声を上げているのを他所に、母はただ怯えを見せる我が子を守る様にして抱き締めるだけであった。



 そして……


「………。」


 あれから時は流れて今に至って、ついに英雄の子は、成人を明日に控えていた。


「いよいよ…か…。」


 天に浮かぶ望月の光が、窓を通して部屋の中に差し込む。
 それが照らし出したのは、眠りに就こうとする中で今まさに閉じられようとしていた子の紫眼であった。
 微かに憂いを帯びた瞳は、まさにその色から連想される深い闇そのものの様であった。


 世界の礎たる勇者が死しても、その遺志を継ぐ者があれば、人々の希望は失われない。
 だが、その失われた希望の替え玉とされた若者は、彼らの代わりに大いなる重苦を背負う事となる。

 天より降り注ぐ光を与えるがために身を灼熱の炎に投じられる生贄の如く、暗き絶望のみが待ち受ける死出の旅路。
 その始まりは、既にそこまで迫っていた……。