序章 一
月夜の舞


 数多の星々が天の彼方に小さな輝きを見せる夜。
 闇が包むその中で、生ける者達は眠りにつき、辺りは静まり返っていた。
 その静寂を行くのは、この闇の中で生けるうごめく者どもだけだった。

 天高くを仰げば、普く星を包む闇夜に浮かぶ月。
 今宵のそれは、完全なる円の形を取っている。
 草原に微かに吹く静かな風が運ぶ一片の花びらが、その光を受けて闇の中にその姿を垣間見せる。



 不意に、遠くに水音が鳴り、張り詰められた静寂の弦を微かに揺らした。



 湖の水面に映し出された月が一瞬波打つと共に歪み、その内から大きな影が現れる。
 撒き散らさせた飛沫の一つ一つが、明鏡の如く同じ月を映し出し、湖面へと雨となって降り注いで再び一つに還る。
 その様な中で、翠玉の如き緑の瞳が天を仰ぐ。
 周りに立つ木々にも類する程に巨大な影の主は、そのまま月を眺めながら静かに佇んでいた。



 そして、上げられた波紋が水面の上から消え去り、再び闇夜を映す水鏡となったその時だった。



 大気が唸りを上げて、暴風となって辺りへと吹き荒れ始める。
 静まり返った湖面は再び乱されて内に宿した世界は歪み、周りを包む草むらがざわめき始める。

 同時に、湖の中で戯れていた影の主が、空高くへと舞い上がった。
 その軌跡に沿って尾を引いていく様に、水の粒が小雨の如く湖と草原へと落ちていき、大地へと飲み込まれていく。


 幾度も力強く大気を掻き続ける音と共に、更に高く上がっていく。
 行く手を妨げる大気は風となって吹きつける。
 それをその大きな体いっぱいに受けながらも、羽音は強くゆっくりと夜の時を刻み続けていた。


 空を旋回しながら、”彼女”は天へと昇り続けた。
 自らの影で幾度となく月を覆い隠し、また高く舞う。
 輪廻の如く自然な流れに委ねる内に、大きな体はやがて天に溶け込まんばかりに小さく見え始める。
 それは、天に続く段を登り続けた果てに、神聖なる儀を執り行う巫女の様な美麗さを帯びていた。



 そして…ついにはその姿は、天にある月の描く円の内に収まった。



 月の内に移る影、それは大きな翼と細長い体、そして鋭い爪牙と角を身に纏った強き生命。
 光を受けて輝くは、一つ一つがその巨大な体躯を覆い尽くす黄金の欠片達。
 天空より大地を見下ろすは翠玉の瞳。



 それは暫しの間、この天界の内で物言わずに佇んでいた。






 平原のはずれに長きに渡って建ち続ける尖塔。
 僅かに見える石の壁面は風に削られ苔に蝕まれた跡を色濃く残し、古き時の存在を示ししているかの様である。
 だが、その偉大なる遺産は、ここに住まう者達の手によって、今も尚その姿をこの大地へと残していた。


 ここはその頂上に位置する部屋。
 空に見える小さな影がここを目指して流星の如く迫ってくる。


 程なくしてそれが至った瞬間、部屋の中は起こされた風によって激しい物音を立て始めた。
 整えられたベッドがはためく旗の様な張りのある音を奏で、木で拵えられた机やタンスと言った家具が床や己自身の木の体に打ち付けてけたたましい響きを立てる。
 隙間として開けられた窓からは、訪れた者に押し付けられた風達が、さながら笛の音の様な澄んだ音色を土産に逃げ去っていく。
 だが、ここに呼び込まれた奔流はこの一つに留まり、やがて、落ち着きを取り戻す様に辺りは再び静まり返った。



「……くし…っ!」



 暫しの静寂の後、不意に囁きの様な小さなくしゃみが起こった。

「……む…。」

 直後、その不調に納得がいかない様な小さく唸りを上げる。
 子供の様な澄んだ声の質に反して、声には感情は乗っていなかった。

「………。」

 闇の中に佇む子供は黙したまま、光の見える部屋の淵へと歩み始めた。
 皮で地を打つ様な小さな足音を幾度か鳴らした後、望月が浮かぶ夜空の下へとその姿を現した。



 子供の様にあどけなくも表情を宿さぬ顔立ちと、翠玉の如き緑の瞳、そして薔薇の様な鮮やかな赤を纏った長い髪。
 闇夜に溶け込む影を微かに映す月の光が描く輪郭は、小柄ながら綺麗な曲線を描いている。



 それは、未だ幼さを宿した少女の姿に他ならなかった。