8.龍神の息吹 6:蘇り



 ただ一人僻地に追いやられ、デーモン族の闊歩せし竜の巣窟にて数多の戦いを切り抜けた果てにたどり着いた旅の扉。その先に待ち受けていたのは地上への道ではなく、更なる絶望の権化たるもう一体の大魔王だった。
 冥竜王ヴェルザーと名乗った封印されし強大なる存在。キルバーンの主であり、その地に少女を誘うことがその一連の罠の目的であった。

 一体何をさせようとするのかも明確にならぬままヴェルザーの怒りを買って追い詰められ、全てを賭けた反撃も空しくただ一撃で血海に沈むこととなっていた。


『所詮は人間か。』


 死に瀕し、むせ返る程の血の匂いと己の体が崩れ逝くような感覚に苛まれる中で、侮蔑の言を吐きかける声が聞こえてくる。眼前に突き刺さりながらも届かぬメタルキングの剣の奥に、巨大な足音を轟かせながら岩石の竜がこちらに迫ってくる様が霞んだ視界に映る。

『オレ自らの手を煩わすまでもない有象無象めが。この封印さえ無ければ我が前に立つことすら叶わなかったものを。』

 ただ一太刀浴びせられた雷の剣を受けた跡を見やりつつ、更に罵言を浴びせるヴェルザーの声には心底の失望の念が乗せられていた。
 真に魔の者に抗い得る力を携えし者も、人間の限界を超えることは出来ないというのか。僻地に幽閉される間の余興ともならず、ましてその封印を解く鍵になど到底なりえない。

『ふん、その砕けた体で今更何が出来る? 恐怖に駆られて逃げることも出来ぬ愚か者よ。』
「……。」

 既に死を待つだけの動けぬ体。少女自身も気づかぬ内に、その手はメタルキングの剣に向けて投げ出されている。
 徐々に死を迎えつつある今も、そしてヴェルザーに雷の剣で対抗しようと決断したその時も、逃げに徹しようと言う考えは全く浮かばなかった。全ての退路を絶たれたあの場はともかく、何故今になってもヴェルザーに立ち向かおうとしているのか、少女自身にも分からなかった。


「この者に課せられしは大いなる災厄を封じる守人、そしてそなたの如き悪鬼魔獣の類を滅する執行者たる宿命。記憶を失おうとも、その本能には逆らえぬ。」
「……?」


 その疑問に対する答えを成すが如く、何者かがヴェルザーに向けて言葉を投げかけると共に少女の傍らに降り立っていた。嗄れた老人のものでありながらも、勇壮にして傲慢な覇気に溢れたその声は、少女に明確に聞き覚えがあった。


『また、渡り手の類か。下らぬ、共に消え失せろ!』


 その黒衣に包まれた姿を認めると共に、ヴェルザーは下賎の者の到来に憤慨し、それに呼応して傀儡の口が大きく開かれて、灼熱の炎が吐き出された。
 周囲で焼き払われている亡骸を重ねる程の焦熱が辺りの空気を焼きながら降り懸かってくる。



「イオナズン」



 その黒衣の老人は全く動じずに手を前にかざしながら一言呟くように呪文を唱えていた。降り懸かる炎を辺りの空間ごと吸い込んで光球の形として取り込み、その力の一部と化していく。

『むっ……!?』

 己の攻撃を吸収したことを驚く間に、イオナズンの呪文と共にそれが跳ね返される。イオナズンが引き起こす爆炎に込められた灼熱の竜の息吹が岩肌の体を焼き、溶融させていく。

「冥竜の王よ。そなたが望みし力は確かにこの娘の内にある。そなたが目にしたのはほんの片鱗に過ぎぬのだよ。」

 思わぬ痛手にヴェルザーの傀儡の動きが止まったのを尻目に、黒衣の老人はその思惑を見透かしたように言葉を続けていた。

『ほう……? だが既にそやつは死にゆくのみ。今更どうしようというのだ。』

 追撃する意思もなく、ただこちらに興味を示したように少女を差して語る老人へと、ヴェルザーもまた関心を抱きつつも嘲笑するように言葉を返していた。
 回復呪文の一切も通じぬ程に完膚無きまでに砕かれたその体を癒す術は何者にも持ち得ない。如何なる異能を有そうとも、人間の体でしかない少女の命など儚いものでしかなかった。

「心配せずとも興味本位で手心を加えているようでは死なぬよ。彼女はそのようにして育てられて来たのだからな。」
「!?」
『何だと?』

 だが老人はその理に異を唱えるように饒舌に語りつつ、少女に向けて魔法力を練り上げた手を差し向けていた。
 致命傷を負い瀕死とはなったものの、極限の状態で命を落とさずに今も生にしがみついている。捨て身で血路を開かんとする中でも即死だけは免れているのも、無意識に攻撃の虚を突いて身を守ったが故なのか。これまで逃れ得なかった強敵達との戦いで生き延びてこれたのも同じことなのか。
 怪訝に思い首を傾げるヴェルザー以上に、少女はその何の変哲のないはずの戯言に驚愕していた。



「全ての記憶を奪われし竜の使い手よ、そなたの役目は未だ終わってはおらぬ。愚神が下せし死の裁定よ、破壊の脈動の内に砕け散るがよい!」



 そんな両者を余所に、老人は祝詞とも呪詛とも取れるような言霊を唱え上げていた。迷い人の希望を担いつつある少女を叱咤し、その死の運命を定めた神と呼ばれし者を唾棄しながら、練り上げた魔法力を雨の如く彼女の倒れし血溜まりに注ぎ込んでいく。
 主たる少女の体と共鳴するように血の海の存在そのものが明滅を始め、墳墓に滴り落ちていた彼女自身の血痕もまた大地をすり抜けるように静かに薄れて光の粒と化してその体を取り巻き始める。



「ザオリク!」



 そして、老人がその呪文の名を唱えた瞬間、光が少女の体に一気に吸い込まれて行った。

「!」

 失われた血肉の全てが集い、寄り戻されていく。戻りゆく中でザオリクの呪文により活性されたその光は少女の体を再び形作り、死の淵から立ち上がる生命力を呼び起こしていた。

「……? …………??」

 砕かれた全身の骨も引き裂かれた血肉も、潰された内臓すらも全てが元通りの状態に再生されており、少女は再び立ち上がりながらも完全にその状況に混乱していた。
 助けに現れた老人の呪文の凄まじさは底知れぬものと知ってはいたが、死者を蘇らせる程の癒しの奇跡を瞬時に操るなど人間の手で出来る芸当ではない。メリッサやカンダタを始め、悪魔の力に依らずに人間の身で研鑽を重ねて来た迷い人の仲間達と共に過ごしている中で自然にその違和感に気づくことが出来た。

『……蘇生呪文か。邪教の信徒が何故使える?』

 ヴェルザーもまた、人間の……それもその奇跡に与るに到底足らぬような類の邪教の神官たる者が成した呪文への疑問を露わにしていた。

「そなたら竜族や魔族の王共と同じ理由だ。理に逆らう力を得られるのがそなたらだけと思ったか。」
『ふん。だが、確かに貴様の言う通りのようだな。』

 その疑問に対して老人が即座にして簡潔に答えると、ヴェルザーはその傲慢さを気に入らぬように嘆息するも、同時に納得した様子だった。
 人間の身一つで摂理に逆らうことが出来るはずもないと言うのも、所詮は固定観念に過ぎない。それを成す人物に十全な力さえ備わっていれば、外からの働きかけであれ、人間そのものが変革のきっかけとなることも何らおかしくはない。
 魔族や竜族の王たる者達に比肩する人間を冗談ではなく自称する老人を前に、ヴェルザーの興味が向けられる。



「……少し遅かったか。」
「!?」



 蘇ってまともに状況を把握する間もなく再びヴェルザーと対峙する中で、不意に少女に再び体中から力が抜けていく変調が起こると共に、黒い霧が胸元から立ち込め始めた。

「ふん、どうやらこれがあの道化師の策だったようだな。……案ずるな、そなたの落ち度ではない。」
「……?」

 少女から生気を奪い、ヴェルザーの一撃をより容易に通すこととなった元凶たる悪魔の黒霧。その正体や所以を知っているのか少女を咎めることもなく宥めつつも、老人は明らかに警戒した様子を見せていた。
 あくまでも冷静に対処せんとする中でも、その脅威に対して目に見えて意識を向けているのははっきりと感じられる。


《何を落胆することがある。これもそなたの思惑なのだろう、ハーゴンよ?》
「!」


 程なくして、黒霧の中から老人に語りかけてくるおぞましき声が響き渡った。

『貴様は……』

 最後の交錯の直前に少女に纏わりついた呪いの霊光。その主たる者が表層に現れたのを感じ取り、ヴェルザーもまた無意識の内に戦慄していた。
 

「楔が完全に解かれたようだな。……だが、ここで災禍の種を増やすことは貴方の望みではないはずだ、我らが主よ!」

 矮小なる者が集う中で突如として現れた深き闇の化身に向き合いながら、老人は声を荒げて諫めるように強く言い放っていた。諫めるような進言でこそあれ、先に侮蔑してのけた天界の神々に本来向けるべき敬虔なる姿勢であり、それが彼にとって神にも匹敵する存在であると知らしめている。

「……。」

 絶対の実力を持つと認める老人・迷い人の神父すらも平伏する程の存在がこの身に宿されている。そしてそれに最初から気づいていながらも今になって彼の望まぬ方向に進もうとしているのを、少女はその言葉から察していた。
 戦火の及ばぬ位置に居を与えたり、破邪の剣を通して救出の足がかりとしたり、用意周到な備えを怠らずにいる中にあってもこのような状況に陥ってる程の脅威。それを以て何を目指そうというのか。

《邪教の神官ハーゴン……いや、少々長く人の子であり過ぎたようだな、恐慌と破滅を司りし破壊神・シドーよ。》
「しかし……!」

 この狂乱の世にあっても全く躊躇わずに迷い人達を率いて、時に非情な決断を下し続けられた老人・神父ハーゴン。本質こそ人間のそれであれ、悪魔が告げる根源にはシドーと呼ばれし邪神の影がある様子だった。
 人並み外れた魔法力を振るって来た様を思い起こすとその大いなる力の根源も頷けたが、混乱を避けん思惑の相違から悪魔に尚も食い下がる様子からはこれまで慣れ親しんできた人間たる神父の姿が確かに感じられた。

『キルめ、そこまで見透していたとでも?』

 黒霧の悪魔が語りし邪教の神官に纏わる異界の神。その加護を受けているからこそ命の危機に瀕した少女の元に的確に導かれ、救命の中で図らずもその内から黒霧を呼び寄せるきっかけを作り出している。
 その力の発生の意味するところが、己の望みに繋がると自ずと察し、それを導いた使い魔・キルバーンの慧眼と抜け目の無さを認めずにはいられず、ヴェルザーは何処か面白くなさそうに佇んでいた。
 

《そなたと交わした盟約に従い、永劫の狂乱を呼び起こそうではないか。さあ、虚ろなる分身の消滅を以て我が力を見るがよい。》
「ゾーマ……貴方は一体何を……!?」


 老人の進言を過去に結んだ約定によって否定するように悪魔が宣告すると共に、黒い霧が少女を中心として引き起こされた旋風によって洞穴中に広がり、その力を全てに及ぼし始めた。

「……仕方のないお方だ。そなたも急ぎここを…………」
「……!」

 黒霧が辺りに充満する中で、神父・ハーゴンは主たる者の無茶な有様に嘆息するように呆れた様子を見せながら、少女を慮りつつこの場からの脱出を促していた。全てを伝え終えるより先に、悪魔が言い放った通りに黒霧の中でその体が薄れていき、風に溶けるように消え去っていく。
 この場で最初に遭遇したキルバーンと同じく魔法力によって作られた仮初めの肉体でしかなく、暫しはその破壊神の申し子たる特異なまでの力で耐え続けていたが、やがて完全にこの場から姿を消していた。


『くくく……なるほどな。』
「!!」
 

 ヴェルザーの傀儡もまた、全ての力を打ち消す黒霧に巻かれて根こそぎ活力を奪われて元の墳墓の土塊と化していく。だが、己の写し身たる者が崩れ逝く中でもヴェルザーは全く動じることがないばかりか、悪魔の思惑に気づいて愉悦を露わにしていた。
 自分を瀕死に追いやった敵の消失に安堵する間もなくすぐにその意味に気づき、少女は墳墓の方を恐る恐る振り返っていた。

『戦乱を招かんが為にオレの力を欲するか。気は進まぬが……それもまた一興やもしれぬな。』

 頂上に立つ崩れた社の上にある竜の彫像が砂のように崩れた内に、脈動するように明滅する光が佇んでいる。悪魔が引き起こした異変の狙いに乗せられることには良く思ってはいない様子だったが、それも気に留めぬ程の愉悦を見せつつ、光の内に佇むヴェルザーの気配が墳墓の内へと入り込んでいく。

「……!!」

 次の瞬間、地鳴りと共に墳墓に亀裂が入り、洞穴全体へと波及して辺り全てが崩れ始めた。降り注ぐ瓦礫を必死にかわしながら、先の傀儡の時の比にならぬ程に膨れ上がり続けるヴェルザーの圧倒的な重圧を間近に感じ、少女は戦慄の余り息が詰まるような錯覚に陥っていた。



『よもや異界の神より救いの手を差し伸べられようなどな。貴様も神を憎みし存在なのだろう、ゾーマとやら?』



 視界を覆う黒い濃霧が渦巻く中で、ヴェルザーはその主たる姿なき悪魔・ゾーマに向けて礼を告げるように語りかけていた。同時にその本質を見抜いたのか、共感したような様子で辺りの黒霧を眺めている。
 この世界を創り見守るとされる人・魔・竜の三種族を司りし天界の神々。伝承の中にのみ記されているその存在を、ヴェルザーは確かに認めている。太古より生ける竜の王がその大いなる存在を引き合いに出す程に、この悪魔の力は絶大なものだと言うのか。
 

『貴様の目論見が如何なるものであれ、これで再び地上を目指せる。せめてバーンのヤツの手並みをこの目でじっくり見届けてやろうではないか。』


 余韻に浸るように暫しの時が流れた直後、天を裂く程の裂帛の羽ばたきと共に辺りの霧が一瞬にして払われる。次の瞬間、黒霧に覆われていた視界が一気に開けて、その姿が少女の目に映った。

 仮初めの姿を象った墳墓の巨像の重圧はそのままに、土塊などではない凄まじい生命力の存在たる息吹と脈動が周囲に振りまかれている。これまで対峙してきた如何なる竜も及ばぬ程の漆黒の鱗に覆われた巨躯と竜の象徴たる双角、そして少女の奥に佇むゾーマを見据える真紅の眼光。
 冥竜族の王・ヴェルザーはここに完全に蘇っていた。


『その前に小娘よ……貴様はこの場で消えてもらおうか。どの道この先は人間如きが立ち入ることなど許されぬ戦乱よ。オレ自らの手にかかることをせめてもの幸いと知るがいい!』


 かつての好敵手たるバーンの下に向かわんとする前に、手始めに変わらずこの場に生ける少女を血祭りにせんとヴェルザーは牙を剥いていた。
 大魔王バーンと並び、この世界において最も力ある存在。魔・竜の頂点に立つ両雄が並び立てば、地上に住まう人間に付け入る隙はなく、淘汰されるのは時間の問題であるのは間違いない。
 そして、真に蘇った冥竜の王たるヴェルザーを前にしては最早少女に抵抗出来る道理は一切なく、戦いにすらならぬまま再び屠られようとしていた。


「ルーラ!」
『!』


 だが、少女は再びヴェルザーが迫る直前にルーラの呪文を唱えて追撃をかわしつつ、視界に映っていた一点に降り立っていた。

『旅の扉だと?』

 魔法力により開かれし異空間への門たる光の渦・旅の扉。デーモン族の砦からの旅の扉は既に消え失せており、少女が飛び込んだのは神父・ハーゴンが微かに示唆しつつその分身が消え逝く前に最後の力を振り絞り新たに形成したものだった。
 旅の扉の管理者として頼られてきた熟練の神官の置き土産。それは悪魔の霧に曝されても消えることもなく、少女を迎え入れるその瞬間までヴェルザーの目に留まることなかった。

『どうやら貴様も悪運だけは強いらしい。それも呪いあってのこと、だろうがな。』

 光の渦に包まれて薄れゆく少女の姿を前にしてヴェルザーは悔しがる様子もなく、死に瀕した窮地からの状況を省みるようにしてそう告げていた。ゾーマと呼ばれし悪魔を巡る思惑の中心にあるからこそ、これまで様々な恩恵を受け続け、今もまた蘇ることが出来た。
 ただ足掻き続けるだけでは到底叶わなかった奇跡、それそのものがまさしく人間の限界を露呈させているかのようだった。

『だが、いずれ貴様も彼奴に取り殺されるを待つ定めよ。所詮人身御供に過ぎぬ貴様に未来などないのだ。』
「…………。」

 ゾーマの本質を目の当たりにし、その力の程を知ったのか、ヴェルザーは少女が辿るであろう末路を嘲笑するように続けて宣告していた。
 ここに至るまでにその魂の内に留める資質を生まれ持っていたとはいえ、神の戒めを解く程の脅威を宿し続けるには人間の体は余りに脆弱なものでしかない。

 激戦が続く中で大魔王級の竜に施された封印すらも解く程にまで目覚めを極めた今、最早悪魔の力に翻弄されることは避けられず、少女自身もその中でいつ再び命を落としてもおかしくない状態だった。


 全能なる神に近しき竜王にまみえることで多くの歪みと弱さを看破されて更なる無力感に苛まれながら、少女は旅の扉と共にこの場から消えていった。
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