5.忘失の内に1

 テランの山奥に位置する洞穴の入り口。その前の岩から延びる鎖に繋がれている一匹の白い竜が首を伏せて眠りについている。堅牢な鎧のような雪色の鱗に覆われていながらも、その寝姿はまるで無防備で優美ささえ感じる程の穏やかなものだった。

「だ、誰だ貴様は!!」

 近くの森から野太い声による怒号を耳にすると共に、森の湿った土を踏みしめながらこちらに向かう足音が聞こえ、竜は目を覚ましていた。薄紫の瞳が見回す先に、トドマンのドラゴンライダー・ボラホーンが来訪者に武器を突きつけている姿があった。

「誰とか何もねえけどよ、まあそいつの飼い主みたいなもんだよ。」
「……何だと?」

 現れたのは、森に溶け込むような暗い緑を基調とした旅装に身を包んだ筋骨隆々の偉丈夫だった。大人程の大きさもあるまがまがしい意匠の大斧を片手で弄び、精悍な顔つきを不敵に歪ませている。

「まあ、ケチなこと言わねえでさ。お前さん方とやり合う気はねえからよ。」

 身構えすらせずに飄々と語りつつ、ボラホーンが唖然としている間にその横を颯爽と通り抜けながら、森の中から現れた男はすぐに竜の元へと歩み寄っていた。
 
『ア、しゃちょー、久シブリ〜♪』

 草木にとけ込むような暗い緑の旅人の服に身を包んだ偉丈夫が近づくのを見て、竜はその厳つい外面と囚われの身に似つかぬ子供のような楽しげな声色で彼に呼びかけていた。
 
「おうチビ。なーにドジ踏んでんだよ。つーか、ちょっとデカくなったか?」
『ソレジャ、モウちびジャ無インジャナイ?』

 少々成長したように体躯と顔つきが変わっていることを始め些か様変わりしていたものの、言葉を交わす前より彼・カンダタにはそれが少女の騎馬たる白竜イースであるとすぐに分かった。知った仲とはいえ、相手が厳ついドラゴンであろうと全く気にした様子もなく、軽口を叩きあっていた。

「……おい人間。貴様、あの小娘の縁の者か?」
「……ん?」

 そのような場違いなやり取りに呆れたように嘆息しつつ、ボラホーンは洞穴を守るように立ちはだかっていた。ふざけた調子に辟易しながらも、侮ってかかっていたあの少女のこともあり、油断無く身構えている。

「ああ、こいつは間違いなく、俺の知ってる嬢ちゃんのドラゴンだよ。……で、肝心の嬢ちゃんはどうしたんだよ?」

 故郷に向かっているはずのイースがここに囚われているとなれば、自ずとその主も同じ運命にあると知れる。始末することも捨て置くこともせずにこうして置いている以上、少女もまた生かされているのではないかとカンダタは推察していた。

「さて、な。今度ばかりは生きていないかもしれん。人間の分際で、しぶとい小娘ではあったがな。」

 表向きは冷静に振る舞っているように見えるも内心ではかの小娘に執心していることを見抜き、ボラホーンは嘲りを交えた言葉で返礼していた。
 先の戦いで主バランと僚友ラーハルトと共にテランへと攻め入ったが、彼女だけは戻らなかった。悪魔の軍勢の侵攻の際には一度は傷つきながらも帰還していた以上、イースのためにも戻らない理由などない。それが示す結果は、自ずと知れる最悪のものだった。

「……今度ばかり、ねえ。相っ変わらず貧乏クジばっかし引く奴だよなあ。もしかしなくても呪われてんだろ、あいつ。」
「……!」

 少女が死んだ、と遠回しに告げられて、カンダタは深いため息を吐き、うんざりした様子で呟きながら肩に担いだ斧をおもむろに構えていた。

「き、貴様!!」

 急に武器を取った途端に振りまかれた怒気に戦慄して、ボラホーンは反射的に身構えながらも後じさっていた。いかに恵まれた体躯に恵まれようと所詮人間に過ぎないはずの男の危険性を、本能が訴えかけている。

「そうカッカすんなって、あんたらとやり合う気はねえって言ったろ? 黙って見てろよ。」

 大事な娘とも言える存在を好き勝手された挙げ句、捨て置かれたことに、激昂してもおかしくはない。だが、何がその怒りを止めおいているのか、カンダタは至極冷静にボラホーンを制しつつ、イースを繋ぐ鎖を手に取った。

「お前は……」

 騒ぎを聞きつけたのか、洞穴の中から出てきた武人・バランがカンダタの姿を認めると同時に、甲高い破砕音と共に鎖の欠片が宙を舞っていた。

「悪いがこいつは貰ってくぜ。下手すりゃホントに嬢ちゃんの形見になっちまうかもしれねえし、ここは大目に見といてくれや。」
「!」

 繋がれている竜ですら引きちぎれない代物が木っ端の如く砕け散る様に呆気に取られているボラホーンと興味深そうに注視してくるバランを尻目に、カンダタは鎖から解き放たれたイースの背に手をかけていた。

『……モノ扱イ?』
「さあな。とりあえずテランに向かうぞ!」

 その長い首を傾げながらじっと見つめてくるイースの頭を撫でるように軽く叩き、そのまま背に跨る。いつしかカンダタの巨駆をも危なげなく支えられるまでに、白竜の子は成長を遂げていた。

『ンー、ヤッパリボスガ居ナイト締マラナイナー……』

 最早人間から見れば立派な脅威にもなり得る外面に反して、おどけた子供のような物言いで不満を零しながら、イースは勢いよく跳び上がりつつ翼を広げた。大きな翼が風を切り、次の瞬間には跳躍の勢いそのままで大空の彼方へと飛び去っていた。

「あ、あいつら、一体なんだってんだ……?」
「人間如きが……オレの鎖を壊しただと?」

 竜をも縛る鎖を破壊する力と、歴戦の戦士ですらたじろがせるだけの気迫。囚われている間に成長したイースが見せた鮮やかな飛び様も相まって、目の当たりにした騎士達は例外なく目を奪われていた。

「あれが、かの娘の師か。」

 呆気に取られる部下達とは対照的に、バランは去りゆくカンダタが見せた芸当の一部始終を見て、あの少女の力を垣間見ていた。特異な力を抜きにしても鍛錬により磨き抜かれた力と技は、彼女もカンダタも紛れもなく本物だった。
 少女がベンガーナの森を焼き尽くした得体の知れない存在を宿しているのも、磨き抜かれた彼ら異界の人間ならではのことなのだろうか。一度は脅威になるであろうと認識した者達が、見えざる力に縋るだけの張り子の虎などではないと知って、バランは心の片隅で安堵していた。




「くくく、お主も幸運じゃったな。」

 仄かな灯明に照らし出された薄暗い部屋に構築された研究室の最奧に佇む者に、ザボエラは心底愉快そうに語りかけていた。

「我がモルモットになれるだけでは飽きたらず、こうして蘇生液に浸かれるなど、人間などにはそうそう得られぬ機会じゃろうて。」

 硝子に仕切られた先に満たされた深緑を帯びた水の中に、一つの影が揺らめいている。藻のような濁りの間から白く滑らかな柔肌が垣間見え、その四肢は海月のように力なく漂っている。静かに渦巻く水の中で、異界より迷い込んだ少女は静かに眠るように佇んでいた。
 クロコダインより受けた致命の一撃と未知なる力の暴走による魔力の枯渇で尽きようとしていた命を繋ぎ止めているのは、他ならぬ水槽の水・蘇生液だった。死に瀕した者を治癒するべく開発されたこの世界の魔の者達の英知の産物であり、その効能と希少さも相まって貴重な資源だった。そのような代物をまさか人間などに惜しげもなく使っているなど、酔狂の類とも思える奇行だった。

「して、間違いないんじゃな? 司祭殿。」

 以前ならば予想もつかなかったであろうそんな状況を滑稽に思い、皺だらけの顔を下卑じみた笑みで歪めながら、いつしかその後ろに立つ来訪者へと向き直る。そこには鮮血のように赤い司祭帽をかぶった長身痩躯で紫の肌の人ならざる男が、畏まるように一礼していた。

「くくく、かの秘法の鍵までもがこの小娘の中にあるとはのう。」

 その姿勢を肯定と受け取りながら更にほくそ笑み、蘇生液に沈む少女の体に再び目を向ける。戦士でこそあれ、豊かな膨らみと丸みもつ細身の体躯は明らかに人間、それも女の域を出ない。
 そのような脆弱な体の胸元に微かに刻まれた穿孔の跡が淡い黄光に彩られている。傷が癒えると共に徐々にながら確実に薄れていく小さな光に、ザボエラはただならぬ眼差しと期待に満ちた笑みを向け続けていた。





 無に還ったように完全に意識を閉ざしてからどれ程の時が経ったことだろうか。

 蘇りつつある感覚が最初に汲み取ったのは、全身をくまなく覆う生温かい水の感触だった。
 体全体が溶け込むようなぬるま湯が体の内まで行き渡り骨身に至るまでを満たすにつれて、睡魔にも似た強烈
な倦怠感が深まっていく。何かが己を苛んでいくことに痛みも感じぬまま、ただ水の中で微睡み続ける。

 最初に気がついた時は、何処とも知れぬ荒廃した地、後に魔界と知ることになった世界の真っ直中に一人。それより前の記憶も持たぬが故に、ただひたすらに生き抜き、気がついたら似たような境遇で迷い込んできた異世界の者達の元に流れ着き、苦楽を共にするようになっていた。
 女、しかもまだ大人にも届かぬ年頃でありながら、武器の技量と竜を駆る力を以て、他の優れた戦士達と肩を並べて町作りを守ってきた。そして今は、地上を繋ぐ扉を経て、新たな居場所を求めるべくして己の役割を果たしている。

 結局はその思惑を知ることも信じることもなく、一度全ての記憶を失った己の再研鑽の機会に過ぎなかったが……。

 堂々巡りを続ける回想の中で、不意に硝子が砕けた音が水を伝って届くのを、少女は遠くのことのように感じていた。



 蘇生液の水槽が安置され、様々な機材が繋がれている研究室。今はその研究に従事している者の姿はなく、水槽に繋がれた金属管と流れる水が奏でる音が、暗闇の中で延々と響いていた。

 灯火一つない部屋と外を繋ぐ扉が開け放たれると共に、外の灯明が差し込み、薄暗く照らし出す。刹那、その扉の隙間から目映い光が閃くと共に、二条の光弾が奥の水槽に射かけられた。
 一つが着弾すると共に小さな爆発が硝子の壁を穿ち、瞬く間に全体に亀裂が走ると共に一気に瓦解させていく。やがて砕け散ると共に崩れ落ちる水の中の少女の元に、その破片が殺到するように飛来する。それらが突き刺さらんとする直前に、もう一つの光が彼女の目の前を閃くと共に周りの水諸共それにまとめて引き寄せられ、残らず光の先に吸い込まれていく。最後には、光は彼女から離れるように研究室の片隅へと向かい、目映い光をまき散らしながら内に含んだ硝子の欠片ごと、爆炎と化して融け消えた。
 閃光が収まったその後には、水から解き放たれた少女が艶やかな黒髪を垂らして水槽の床に横たわっていた。生まれたままの赤子とも眠れる獣とも取れる、無防備ながらもその体の内で磨き抜かれてきた力を体現したような光景だった。
 
「ふむ……」
 
 初老に差し掛かった頃合いを思わせるしわがれた声を零しつつ考え込むように、侵入者は彼女の様子を暫しの間窺っていた。疑うべき事柄を知っているかの如く、その体の要所要所を油断なくも手早く見定める。
 傷跡の一つもない程に綺麗に治癒されて、柔肌を通して見える血色も良好だが、この敵地に囚われた者に対し何の束縛も施さぬはずもない。

「ふん、これでは手間が省けたとも言えぬではないか。」

 その存在を彼女から見い出したのか、男は小さくため息をついていた。死の淵から拾い上げたことに対しても何の感慨もなく、そのついでに行われた余計な真似への苛立ちを露わにしている。これ以上の観察は無意味と言うことか、男はすぐに少女の元へと歩み寄る。

「!」

 その瞬間、いきなり彼女が懐に飛び込み、その腰に帯びていた剣を鞘ごと奪うと同時に斬りかかってきた。三叉に分かれた半ばから折れた剣が、男の腕を掠める。

「やはり、そなたを前にスクルトなど無意味、か。」

 半ば潰れた刃と男の衣の強靱さも相まって、斬り裂かれることはなかったが、腕に伝う衝撃が太刀筋の正確さを物語っている。己に施した防護の力もいつしか霧散しており、思わぬ一撃を許す結果となっている。
 それでもその口振りは、本来よく知っているはずのものを実際に体感したかのような、感銘を受けている節すらあるような物言いだった。

「しかし、あの盗人如きめが……やってくれたな。」

 その一方で、このような事態を引き起こした元凶たる者にも心底の嫌悪感を表していた。何者も手出しの出来ぬような環境に少女を追い込んで拐かしたばかりか、挙げ句の果てには洗脳まで施している。
 この状況の収拾にかかる代償も鑑みて、その害悪なる者に対して私怨すらも抱いていた。

「イオラ」

 手にした杖で何合か打ち合って間合いを取ろうとしたその時、少女が呪文を唱えると共に、指先が描く光の軌跡から幾つもの光の矢が放たれる。

「覚えておくがよい。イオとは、こう使うのだ。」

 周囲の空間を吸い込み、爆発の力を帯びたイオラの光に臆せず手をかざしつつ、男は丁寧な師の如く穏やかにそう告げていた。
 少女の放った光の矢が、その二つの掌に残らず絡め取られ、光球の形に押し込まれていく。それを男がおもむろに握りつぶした瞬間、内包されていたエネルギーが部屋中に溢れ返った。小さくも無数の光の矢と目映い光、そして熱を帯びた強烈な爆風が研究室を完全に破壊し尽くし、少女の視界を一瞬奪っていく。

「その思惑ごと、打ち砕いてくれよう。」

 誰に向けてか男がそう告げるのを耳にすると共に、少女の鳩尾に男の杖の先端、赤い宝玉が突き刺さっていた。

「そなたのようなうら若き乙女に手荒な真似はしたくはないのだが、な。」

 その一撃で崩れ落ちようとする少女を抱き止めつつ、身に纏った黒い外套を被せていた。蘇生液に浸けられるにあたり身ぐるみを全て剥がされて、武器や防具は愚か、一糸も纏っていない。今その手に握っている折れた破邪の剣は取り戻したが、それ以上の余分な荷物を携える暇もない。
 黒衣に包まれた少女を抱きながら、神官の衣を纏った老人は、その場から踵を返して静かに立ち去った。


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